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押見修造の興味深い点は、同時進行でに作品書くことを常態にしている点で、
作家性の強いこだわりある作風故に、どうしても互いの作品がなんかつながっているというか、相互補完的であるというか、パラレルワールド的であります。
『血の轍』って、大げさな題名で、まあディランの作品からとられた題名だから仕方がないのかもしれないけど、
自分的には、『ハピネス』の方が題名的に好きです。
何が『ハビネス』なのかというのも、なんとなくわかるような気がしますというか、その題名の方向に物語が収束していくのでしょう、きっと。
同時進行の二作品のうち、誰にでもわかりやすい要素満載なのは『ハピネス』の方で、読む人を選ぶ的なのは『血の轍』の方ですけれども、
むしろわたし的には、何を言わんとしているのかをはっきり出しているのは『血の轍』の方であり、薄皮はがしてみないとどんな面構えなのか分からないのが『ハピネス』の方で、
読みながら考え込む時間が長くなるのは『ハピネス』の方。
『血の轍』って、『惡の華』と同じ町、同じ家が舞台で、主人公が家に帰ると、『惡の華』の佐伯さんそっくりな母親がいる世界。そして学校に行くと仲村さんから毒気を抜いた美少女がいる世界。
そして、前作と異なり、世の中と相いれないのは佐伯さん的な人物の方で、仲村さん似の方は今のところ何ら後ろ指さされることのなさそうな人物です。
毒親、って帯に書かれているそうですが、
愛情という檻籠に子供を閉じ込めてダメにしていしまう母親像なんですが(今のところ)、その母親と『ハピネス』の6巻の主役の五所さんって似てるというか、似てきたというか、スッとぼけたユーモアの感性が同じというか、
なんかつながってるのですよね、二作品。
『ハピネス』の五所さんのキャラにしても、単にけなげな主人公ではなく、男を檻籠に閉じ込めてダメにしてしまうような母性の持ち主の側面をちらほらと何度も見せてきました。
死んだ弟への愛情は、そこまで肯定的なものなのだろうか? いつまでも死んだ弟の写真に手を合わせ、死んだ弟と一緒に使っていた二段ベッドと大人になっても使い続けることは、そんなにいいことなのだろうか?
死んだ弟と似てるという点から主人公の男の子に見返りのない愛情を注ぐことはそんなに正しいのだろうか?
そんなこんなで、『ハピネス』という題名とはいえ、きっと必ず、『血の轍』的なドロドロした感情の錯綜をもって物語が終盤に至るのだと思われます。
また、吸血少女ノラの方も、そういうたぐいの愛情の持ち主で、主人公の弾除けになってハチの巣にされるのもいとわないのですけれど、彼女のせいで、彼ずっといつまでも吸血鬼としてさまよわなくてはならないことになっちゃって大変です。
一方で、岡田和人の『ぱンすと』
押見修造と異なり、一作終わって次の一作ですから、二つの作品の相互乗り入れ的な展開がないのは、しょうしょう物足りなくもあります。
そして、この作品、過去作品と比べると今のところ変態濃度がかなり落ちました。
過去の作品、『すんドめ』『ちちんぷいぷい』と設定が近く、それら過去作品の枠からまだはみ出すような要素が見えてきません。
そして、ヒロインの年齢が結構上らしく、三十台後半くらいらしくて、マザコン的な変態さを掘り進むことになるかもしれませんが、今のところ何とも言えません。
自分の予想的には、かぐや先生とヤリチンは親子なんじゃないか?という気がします。
キャラの顔的に、エヴァンゲリオンの綾波とカオル君そっくりですから。
押見修造と岡田和人、互いに連絡取り合ってるわけでもないのでしょうけれども、この同じときに、同じく毒親マザコンを題材にしている(らしい)点でも、因縁浅からぬ間柄のようです。