映画ではなくマンガの話ですが、

 

花もて語れ 1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

花もて語れ 1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

 

 国語の教科書でみんな習った文学作品を朗読することで読み深めていこうというアイデアについてのマンガです。

絵がいいとかコマの素晴らしいとかそういうのは置いといて、このアイデアが素敵。

 

宮沢賢治の『やまなし』のクラムボンってなんなの?というおそらくすべての日本人が抱いたであろう疑問について延々と解説してくれていました。

 

 

映画をしつこいやり方で見るようになってから、小説の読み方が自分の中で変わってしまった、

小説を脳内で映像化するのはものすごく大変なことで、きわめていい加減なやり方でうすぼんやりとした映像しか脳内には描かれていないことを自覚してしまった、そして自分の脳内のイメージの貧弱さというのが大方自分の脳内イメージの材料の貧困によるものと認識したとたん、

小説読むのが、つらくなってしまいました。

そして、そういうつらい作業を読者に強要するような作者が、ずうずうしい存在に思えてしまい、すっかり小説を読まなくなってしまったのですが、

 

『花もて語れ』で行われている、朗読、音読により初めて文学が分かるというやり方、

それって脳内映像化ではなく、音声のみによる演劇化だよなという気がします。

 

普通の大方の人の小説の読み方って、クラムボンについて語り合うカニの兄弟の年齢が推定できないとしても読み進めて、途中で年齢が分かったとしても、冒頭の箇所まで戻ってから、自分の頭の中のイメージを刷新して読み直す、なんてことはないでしょ?

このマンガ、やっぱ、そういう戻って読む、状況と設定をつかむための下読みを経てから、朗読の本番が始まる、それで初めて文学の音声演劇化が可能になるというスタンスです。

 

そういえば、

トルストイの『戦争と平和』の冒頭って、貴族のおばちゃんが貴族のじいさんに向かってぺらぺらぺらぺら延々としゃべってるんですけど、それがどんな場所でなされているのかが、数ページ読んでもなかなか分からない。ついでに言うと当時のロシア貴族の住居の様子なんて資料漁らないと脳内に思い浮かばない、

んですから小説の脳内映像化って、何度も戻って読む必要があるし、ひどくややこしいことなんですけど、

プラス、登場人物に脳内演技させないといけないのもつらいです、

 

でも、やっぱ、こういう作業なくして、本当のところ小説って分かんないんだろうな、と再認識しました。

だから、小説家があんまり長大な作品書いたり、やたら多作だったりするのって、読者の貴重な時間を奪うという点では非道徳なことなんだろうな、書ける人間こそ、ちょちょっと短い言葉でいいこと表さないといけないんだろうな、なんて思いました。

 

最近コンビニでマンガ立ち読んでいる人たちを目にしないようになったと思ってたら、マンガ雑誌ってここ数年急激に売り上げを落としているそうです。

 

そんなんですから、岡田和人氏の連載が載ってるヤングチャンピオンってどんな雑誌なのかあんまり見ることもないのですが、

 高校生がメイン読者でしょうか?

グラビアの女の子、巨乳ですが、岡田和人氏のヒロインはここ最近貧乳です。

 そして、

 私が知らんうちに、『いっツー』が終了して、新しい連載が始まってました。

 

 

岡田和人氏のマンガ、私は好きです。

しかし、岡田和人氏のマンガは世間的には今一つで、彼の存在は中堅漫画家的な扱いかもしれません。

そういう今一つな扱いを受ける理由について、ファンである私も思い当たる節はたしかにいくつもあります。

  • 内容がエロすぎ
  • 物語が偏りすぎ
  • エロ方面以外の画力ってどうよ?
  • キャラの描き分け数パターンしか持ってないよね

たしかに、『いびつ』とか『いっツー』を座右の書と上げるような人が何百万もいるようだと、それはそれで嫌な世界だなという気もしますが、

私にとって岡田和人の中堅どまりで、それ以上売れっ子にならない原因って、すべて彼の魅力のようにも思われます。

 

作者がいて、作者の人生がある。その中で物語がある。

物語が完結したとして、作者の人生は続いていくのですし、作者の人生の問題は解決しないまま続いいていくことも多いでしょう。

一つの連載が終了し、次の作品の連載が始まったとして、

前の連載の問題って一応風呂敷たたまれたことになってるかもしれないけど、作者の中では依然進行中の問題なのかもしれません。

 

だから、前の作品の問題が次の作品の中で姿を変えて継続存在してるって当たり前のことでしょうし、

岡田和人氏のようにキャラの描き分けのパターンが限られている人、もしかすると敢えて少なくしている人の作品だと、

一つの作品のキャラが、次の作品の中に輪廻して、簡単に片付かない問題と延々と向き合っている、そんな気がします。

 

それと同時に、前作でひどい運命を背負わされていたキャラが、次の作品では妙に明るいキャラになっている場合には、読んでるこっちが救われたような気持になります。

 

『ぱンすと』校医さんがヒロイン。

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前作の『いっツー』のヒロインの髪形を踏襲してますけど

 

 前々作の『いびつ』のヒロインにより似てるような気がしました。

 

もしくは前々々作『すんドめ』のヒロインでしょうか。 

 

 

 

今度こそヒロインに対して文句のつけようのないほのぼのしたラストがあればいいのにと思うと同時に、そうなっちゃったら詰まんないよね、という気もします。

 

 

2012年手塚治虫文化賞短編部門受賞作品です。

 

酒のほそ道 1 (ニチブンコミックス)

酒のほそ道 1 (ニチブンコミックス)

 

 このマンガ 私は繰り返して30回くらい読むでしょうか。

 

既に23年以上連載されている作品で、

長さだけでいうなら、

ドラえもん』27年

サザエさん』28年

島耕作シリーズ』34年

こち亀』40年

などがあります。

 

島耕作ですと、若い時から始まって、どんどん出世していくのにかかった年数と連載の期間がほぼ一致していますが、

その他のよくある作品ですと、どこかで時間が止まったワンダーランドが舞台になっているのが興味深いです。

 

例えば、ドラえもんですと、昭和三十年代の東京郊外が舞台であり、のび太とその仲間たちは、延々と小学生の時間を繰り返すのですが、

しかしながら、その連載雑誌が小学館の『小学一年生』から『小学六年生』であるので、のび太とその仲間の年齢の成長が止まっているとしても、読者が中学生になるとドラえもんの世界から卒業して大人になっていくのですから、

『小学~年生』の連載を読んでいた子供の立場からすると、ドラえもんの世界に違和感はありませんでした。

 

それと比べると『こち亀』は、年齢不詳のおっさん警官が主人公で、連載されていた40年の間ほとんど彼とその周囲の人たちは年を取らない。そのくせオリンピックとかの時事ネタはちゃんと作中に出てきますから、作品の中の時間の流れと登場人物の年齢に齟齬が生じてきます。

もちろん、読む方のこちら側は年ごとに一年ずつ老いていきますので時間の止まった作中人物とその世界のコアの部分がワンダーランドのように思えてきます。

おそらく『こち亀』の世界観のコアの部分は秋元治の子供時代なんでしょうか。

 

 この『酒のほそ道』にしても、短編マンガで、酒に意地汚いおっさんくさい主人公が毎回毎回酒を飲むという、それだけのミニマムな物語が延々と何度も何度も繰り返されます。

コンビニにおいてあるグルメマンガと認識されている人も多いでしょうし、私も最近レンタルして全巻読むまでは、コンビニ版のアンソロジーで読んだだけでした。

で、レンタルした正規版のコミックで発表順に作品を読んでいきますと、いろいろ興味深いことが分かってきます。 

 

主人公の岩間宗達は、大酒のみのサラリーマンですが、俳句をたしなむ風流人。それゆえに四季の移り変わりや季節のイベントを舞台に酒を飲む話が繰り広げられます。

 

酒のほそ道 ?四季彩総天然色?
 

風流な酒飲みの話ですから、一年の季節の流れから物語世界が離脱することができない。

毎年必ず現実世界の四季に合わせて、花見の話や海水浴の話や年越し・正月の飲みの話が描かれます。

 

主人公である岩間宗達は、マンガ連載開始当時の年齢設定が29歳。それが二十二年間にわたって毎年のように正月や花見のエピソードが描かれますので、こちら側の世界と同じく、岩間宗達も51歳になっていないといけないんだろうなぁという気がします。

こち亀』とか『サザエさん』みたいに、開き直って作中の時間の流れを止めきってしまえばいいのでしょうが、

他愛無いホームドラマと違って、酒吞みって毎日飲んでいればいいにつけ悪いにつけ老いていくわけでして、いついつまでもさわやかな酒吞みであることはできないのでしょう。

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長年酒を飲んでいると病気になって、人生を考える。

長年酒を飲んでいるうちに結婚して子供ができて、酒代を削らざるを得なくなる。

長年酒を飲んでいると、酒で大失敗してそれで反省して禁酒する。

長年酒を飲んでいると、好きな酒の種類が変わったり、吞み方が変わったりする。

等のいろいろな転機があるものですし、作者のラズウェル細木もエッセイの中でその手のこと書いていたりします。

 22年間の連載の中で、主人公の岩間宗達は五歳ほど年を取ったことになっています。

連載開始時には、居酒屋でたばこ吸ってたんですが、最近の作品ではメタボがどうしたプリン体がどうした痛風がどうしたという話がよく出てきます。

そして、それ以上に酒吞み、酒を飲むことに対する世間の考え方が変わってきたようで、

このマンガの連載の始まったころの90年代の学生生活って、文系の場合は授業もほとんどなく飲み会に参加するだけのために大学に籍おいてたようなものでした。

世の中もそれでいいと思っていた、というよりも、政治に口出すくらいなら若者は酒吞んで遊んでりゃいいと経団連のジジい連中が真剣に思っていた時代です。

今ではさすがにもっと時間を有効に使えよと社会が要請していますし、20以下の飲酒にはすっかり世間が厳しくなっていますし、それ以上に酒吞まない人も増えました。

なんだか、酒を呑むこと自体じじ臭いものになってきてるようですし、岩間宗達の姿を見て「いまどきの35歳はこんなじじ臭くないよ」という感想が若い読者からは必ず出るでしょう。

 

週刊誌に連載されているマンガですから、年に50回。その内4回くらいは、伯父夫婦と一緒に呑むエピソードになります。

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主人公29歳に対し、伯父さんは60歳くらいの設定だったんじゃないでしょうか。

そしたら22年後の今ですと82歳。ちゃぶ台とかこのいでたちとかだと、そんな齢でしょうか?

 

作中の中では22年間の中で5年ほどしか時が流れてないことになってますから、この伯父さん65くらいのはずなんですよね。そしてそれ以上におばさんが60歳だとしたら、「今時こんな六十歳いねぇ」とケチが付きそうです。今の60歳はユニクロ来て一昔前の40代にしか見えんわ、って。

 

 

この『酒のほそ道』のワンダーランドぶりは、これにとどまりません、もちろん。

毎回毎回酒吞むだけのミニマム物語なんですが、その吞む相手も

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  • 学生時代の吞み友達

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  • 近所の酒場に集ういつもの面々

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  • 伯父さん夫婦

それから

  • 仕事関係の人と飲み
  • 一人酒場
  • 自宅で一人吞み

以上のパターンがローテーションされます。

 

一番多いのは会社の同僚と帰宅途中に飲むパターン、大体25%くらい。それに次ぐ回数は家の近場の小料理屋でいつもの面々と飲むパターン、大体20%くらい。

そんで、

「ああ、これってワンダーランドだな」と思うのは、主人公が小料理屋の暖簾をくぐると、そこの女将さんが

「あら、岩間ちゃん久しぶり」って挨拶するんだけど、

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女将さんは毎回毎回別の人。つまり毎回毎回別の店に岩間宗達は行くにもかかわらず、そこで出くわすのはいつもの面々。

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酒のほそ道』ワンダーランドのこのルールが私は好きです。

吞み助にとって、いろんな店を開拓したいという願望はあるのですが、

新しい店に一人でいったら、誰も話す相手がいなかった、その店の常連ばかりが盛り上がっていて居場所がなかったってことになりかねませんので、なかなか新しい店を開拓するのは気が進みません。

でも、新しい店にふらっと入っても、そこに必ずいつもの吞み友がいると都合がいいのになぁという、吞む側の願望がうまく投影されているようです。

 

 

これとは逆に、『酒のほそ道』の姉妹編ともいえる『美味い話にゃ肴あり』ですと、

 

 居酒屋のマスターが主人公で、毎回毎回彼の店に同じメンツが集います。

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でもこれだと物語が煮詰まってしまうのですよね。というか人間関係が煮詰まりやすいので、登場人物どうしでしょっちゅう切れ合っています。

なんか酒吞むマンガというよりも、酒吞みを観察するマンガという感じです。

まあ、これはこれで面白いのですが。

 

 

 

 

 

つい最近まであまり思うことのなかったテーマですが、最近気になってしょうがないことなので書いてみます。

 

私たちはドラマや映画に阿部寛とか木村拓哉が出てくると、「あっ阿部ちゃんだ」とか「またキムタクかよ」と認識して、結局よほどのことがない限り彼らが彼ら自身であることから私たちの頭は離れることができません。

 

少々古い映画の話ですけど、

『ゴッド・ファーザー』に出ていたアル・パチーノが役者としてのイメージが固定化するのを嫌いしょぼいチンピラの役をやってたりホモレイプされるような役を演じてるのを見ると、観客の立場としては結構混乱してしまいます。

もしくは、「全米一のマフィアのドンがそこまで落ちぶれたのか!?」といくつかの映画をごっちゃにした一見非論理的な感慨を持ってしまいます。

 

生身の人間が絵空事を演じている、それゆえ、私たちはドラマや映画を完全なフィクションとしては見ることができないんですよね。

物語はフィクションであっても中の人たちは私たちと同じ現実の世界に生きてるわけですから。

だから、作る側としては、開き直って、

阿部寛なんだから、彼の過去の作品群から主人公はこういう内面を持ってるに決まっている」と観客に類推させることで作品の情報量を割り増すことができます。

逆に、「阿部寛がこんなことを!!」と絶句させることで本来ストーリ―と関係ないところで盛り上げることが出来たりもします。

 

 

これに近いことは他の物語ジャンルにもあり得るのかということですが、

 

小説って、同じ作者の物語群で、登場人物の思考パターンや行動パターンが似ているというのは往々にしてありますけれども、登場人物の容姿や声に対して正確に読者に伝えることができませんので、同じ人物が別の作品に登場してくることによる戸惑いは基本的にありません。

 

しかし、それと比べるとマンガって、小説よりも映画に近い。

物語はフィクションであろうとも、そこに描かれた絵って現実として存在しています。

 

まあ、キャラクターを描き分ける作者の技量にもよりますけれど、

たいていの作家って、ヒーローは数パターン、ヒロインも数パターン、悪役も数パターン、それらを作品の枠を超えて使いまわしてるだけですから、

「あっ、阿部ちゃんだ」「け、またキムタクかよ」的な感慨を持ってしまうんですよね。

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某巨匠の主人公。顔だけ見ててもどの作品かは分かりません。

こういう作品にどう接するべきなのかというと、

かわぐちかいじってキャラの描き分け数パターンしかないよね」ではなく、

黒澤に三船・小津に笠智衆がないと物足りないような、「よっ、待ってました」的な受け止め方なのでしょう。

 

正直申して、『沈黙の艦隊』も『ジパング』も『空母いぶき』も似たような話じゃないですか。似たような話に似たようなキャラクターが出てくるのは当たり前のように私には思われるのですよね。

そして、その有様が、同じ登場人物が別の作品のに於いて輪廻転生してるように見えるのですよね、私にとっては。

 

物語が現実の問題を出どころとしている、物語が現実に生きる人々の願望を出どころとしている、それゆえに物語の中だけで問題が解決したところで私たちの目の前の世界はほとんど変わらないまま残っているわけです。

だからでしょうか、主人公が舞台を去っても似たような物語がまた始まり、結局さっきの主人公はその新しい物語に輪廻転生せざるを得なくなるのではないでしょうか。

 

 

松本大洋の作品群ですと、

ZERO(ゼロ)(1) (ビッグコミックス)
 

 ほとんど知障でネガティブとは無縁の主人公。

生きてるのが不思議なくらいなハードな試合の中で彼がぼそっと言う台詞、

「今度生まれ変わるときは、花になりてえ」

 

 

花男(1) (ビッグコミックス)

花男(1) (ビッグコミックス)

 

 ほとんど知障で三十を過ぎても巨人入団を真剣に信じてる父親花男。そんな父を宇宙人か何かのようにしか感じられない息子の茂雄。

 

 

 ほとんど知障で明るいけど無力なシロと、頭よくて強いけどネガティブで心の折れやすいクロ。

 

 

ピンポン(5) (ビッグコミックス)

ピンポン(5) (ビッグコミックス)

 

 ほとんど知障で明るくて卓球の天才のぺコ。頭よさげだけど暗い卓球の天才スマイル。

 

現実の社会への興味を発端とするかわぐちかいじの架空戦争シリーズと比べると、松本大洋の物語群は、もっと個人的で内面的なものですから、作者の人生の流れの中でその問題意識も少しずつ変わっていっているようです。そしてそれに合わせて登場人物の在り方も輪廻転生しているとはいえ、少しずつずれていってるように思われます。

阿部寛がいくらドラマで人気者になったからと言って、彼は生身の人間ですから他に変わりがいません。

でも、アニメや漫画のキャラだった場合は、割と簡単に模倣出来て別の作者の作品にキャラが輪廻転生したりするものです。

輪廻というか増殖といった方がいいでしょうか?

 

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今になって思うと、綾波レイのキャラクターってずっと昔から綿々脈々と存在しているような気がしてしまうのですが、

エヴァンゲリオンってほんの20年前の作品に過ぎないのですよね。

「あっ、綾波系だ」的属性って色々あって、個々の部位についてはそれぞれルーツをたどることもできるのでしょうけれども、よくぞここまでそれら要素を凝縮したもんだなぁと感心せずにはいられません。

 

マンガのキャラがほかの作品に輪廻転生するという話については、

 

テレビのエヴァンゲリオンの最後では、

世界の在り方なんて心入れ替えたら変わってしまうもんだよ。君がこういう世界を求めるならそれが現実になるはずさ、的な流れて、

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普通の人間になっちゃった綾波がいる世界がちょろっと出てきます。

 

ある意味、これは一つの作品内で輪廻転生したようなもんで、

そのせいもあってか他の人が引用しやすい基盤ができてしまったのかもしれません。

 

 

エヴァンゲリオンの作品そのものは、オリジナルのテレビ版に対し、旧劇版、マンガ版、新劇版とセルフリメイクが続き、輪廻転生というよりも永劫回帰という状況でしょうか?

 新劇版の完結が遅れている、というか本当に完結するかどうかも怪しいのですが、

綾波のキャラだけでなく、エヴァンゲリオン的なものは増殖していろいろな作品に拡散しているのですから、本家の新劇版が完結しなければならないというものでもないような気がします。

それに実のところ、エヴァンゲリオンって21年前のテレビ版でとっくに完結してるものですし。

 

 

 

 

 

 

 今回は、マンガ家岡田和人について。

 

『教科書にないッ!』1995年から2002年まで『ヤングチャンピオン』に連載されていた作品です。

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 一巻の頃の絵は、よくある80年代のラブコメ調ですが、

1996年からエヴァンゲリオンがブームになり始めますと、

それに呼応するかのように主要登場人物がエヴァンゲリオン調に変わってしまいました。

 

 

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単行本の4巻あたりからエヴァンゲリオン調に絵が変わります。

ヤングチャンピオン』というと中堅どころのマンガ雑誌ですが、そういうところに連載持ってるプロでも、こういうことやっちゃうもんなんですね。

 

 

 

次の『ほっぷすてっぷじゃんぶッ!』2002-2005年では、綾波まんまのキャラまで登場します。

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この作品、直接エヴァンゲリオンと世界観を共有したりはしていませんが、綾波キャラに関していうとほぼ二次創作レベル。

まあ、高校生くらいを対象にしたエロラブコメなんですが。

 

そしてもう一人、ヒロインとほとんど同じ外見の悪玉キャラ。

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エヴァンゲリオンのキャラが他人の作品の中で輪廻転生しているということですが、

岡田和人の作品に取り込まれたこれらキャラが、岡田作品内で輪廻転生するのですよね。

 

 

次作2006-2009年の『すんドめ』では悪玉の綾波キャラの方が輪廻転生して主役になっています。

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病弱で時折血を吐き殺風景な部屋に一人暮らし。外見は少々綾波とずれてきましたが、諸々の綾波属性が付加されています。

そして内容はというと、高校生主人公の学園ものですが、ラブコメというにはあまりにも変態エロ濃度の高いものです。

まあ、二次創作ってたいていそういうものなんですけどね。

 

 

その次の『いびつ』2010-2013年では、ヒロインの外見はますますオリジナルの綾波から離れて、前髪にその痕跡を残す程度です。

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ただし、持って生まれた空虚さとほとんど笑わないという綾波属性が重要なポイントとなっています。

 

 

その次の『いっツー』2013-2016年

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意外なことに綾波系の外見の男子が主人公になっていますが、その性格にはどこにも綾波属性がありませんでした。

岡田和人、二十年にしてようやく綾波を消化したといったところでしょうか。

 

 

ちなみに最新作2016~の『ぱんスと』

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外見はかなり綾波系に戻りましたけれども、どちらかというと『いびつ』のヒロインの方に近いです。

保健室の先生の役で年齢は三十手だと思われます。

大人で腰回りに少し贅肉がついてる、それってもう綾波じゃないだろう?という気もします。まだ連載始まったばかりですが、どうなるんでしょう?

 

 

子供のころ、物語が悲しい終わり方をすると何日もずっとその気持ちを引きずりました。

物語にいじめられた、うらぎられた、虐待された、独りぼっちだ、さびしい、そんな感じ方です。

 

しかし、だんだん年を取るに従い、そういう感受性はなくなるものです。

それよりも、物語をより俯瞰的に見るようになり、登場人物を何かのメタファーや物語のベクトルの一つのように感じるようになるのですが、

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それでも時には、悲しい物語が自分の中で尾を引いてしまうようなことが時折あるものです。

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自分はかなりすれっからしたほうですが、

物語に対してよりシンプルな反応をする人ですと、99%バッドエンドの物語をこじつけでもいいからハッピーエンドにしようと理屈をこねくり回したり、救済措置を続編やスピンオフに求めたり、

ひどい場合には悲劇を創作した作者を人でなしであるかのように罵ったりもします。

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映画ですと、監督個人の思い入れを映画化するには、企画書をあちこちに配り、脚本を整備し、資金集め、…という迂遠なプロセスを踏まなくてはなりませんので、

新作と前作の間にかなりタイムラグが出来てしまいます。

それに第一、映画って複数のスタッフによる共同作業ですから、監督個人の思い入れはどこまで反映されているのか?は実のところあまり定かではありません。 

 

 

それと比べてマンガは、映画と比べると、少人数の創作であり、資本も大してかかりません。

企画が通ル通らないは別として、

脚本家とけんか、資金が集まらない、意中の役者が出てくれない、ロケ地が確保できない等などの問題はマンガには無縁のことです。

連載マンガの場合、たぶん、一つの作品が終盤に差し掛かったころには、次の作品の構想が作者の頭のなかに徐々に出来上がってきているのではないでしょうか?

 

ですから、マンガに於いて、悲しい結末を迎えたからと言ってそれを補うようなスピンオフや続編を求めるのはあまり正しい読者のありかたではなく、

次の作品が悲しい運命を引き受けたキャラクターたちの輪廻転生の場とでも考えるのが一番合理的のような気がします。

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マンガって個人作業に近いものですから、同じ作者の作品なら、必ず似たような人物、似たようなエピソード、似たような運命があるのですから、

よくよく探すと、あなたが別れを惜しんだキャラクターがどこかにいるものです。たとえ相当外見や性格が変わっていたとしてもです。

 

 

 

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岡田和人の描く笑顔には、キャラクター間の個性差がない。笑顔はみんな同じ顔。

つまり、幸せであるということは個性の消滅とほぼ同意義、らしい。