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子供のころ、物語が悲しい終わり方をすると何日もずっとその気持ちを引きずりました。
物語にいじめられた、うらぎられた、虐待された、独りぼっちだ、さびしい、そんな感じ方です。
しかし、だんだん年を取るに従い、そういう感受性はなくなるものです。
それよりも、物語をより俯瞰的に見るようになり、登場人物を何かのメタファーや物語のベクトルの一つのように感じるようになるのですが、
それでも時には、悲しい物語が自分の中で尾を引いてしまうようなことが時折あるものです。
自分はかなりすれっからしたほうですが、
物語に対してよりシンプルな反応をする人ですと、99%バッドエンドの物語をこじつけでもいいからハッピーエンドにしようと理屈をこねくり回したり、救済措置を続編やスピンオフに求めたり、
ひどい場合には悲劇を創作した作者を人でなしであるかのように罵ったりもします。
映画ですと、監督個人の思い入れを映画化するには、企画書をあちこちに配り、脚本を整備し、資金集め、…という迂遠なプロセスを踏まなくてはなりませんので、
新作と前作の間にかなりタイムラグが出来てしまいます。
それに第一、映画って複数のスタッフによる共同作業ですから、監督個人の思い入れはどこまで反映されているのか?は実のところあまり定かではありません。
それと比べてマンガは、映画と比べると、少人数の創作であり、資本も大してかかりません。
企画が通ル通らないは別として、
脚本家とけんか、資金が集まらない、意中の役者が出てくれない、ロケ地が確保できない等などの問題はマンガには無縁のことです。
連載マンガの場合、たぶん、一つの作品が終盤に差し掛かったころには、次の作品の構想が作者の頭のなかに徐々に出来上がってきているのではないでしょうか?
ですから、マンガに於いて、悲しい結末を迎えたからと言ってそれを補うようなスピンオフや続編を求めるのはあまり正しい読者のありかたではなく、
次の作品が悲しい運命を引き受けたキャラクターたちの輪廻転生の場とでも考えるのが一番合理的のような気がします。
マンガって個人作業に近いものですから、同じ作者の作品なら、必ず似たような人物、似たようなエピソード、似たような運命があるのですから、
よくよく探すと、あなたが別れを惜しんだキャラクターがどこかにいるものです。たとえ相当外見や性格が変わっていたとしてもです。
岡田和人の描く笑顔には、キャラクター間の個性差がない。笑顔はみんな同じ顔。
つまり、幸せであるということは個性の消滅とほぼ同意義、らしい。