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似たようなキャラを使って、似たようなテーマを繰り返して描くマンガ家を
私はひそかに「火の鳥作家」と呼んでいます。
それら作家の作品群は、別個の作品群が手塚治虫の『火の鳥』シリーズのように因果応報でつながっているように感じられるのですが、
松本大洋とか岡田和人がわたし的には「火の鳥作家」なんですけれども、
押見修造もそうなんですが、
押見修造の特異な点は、一つの連載描き切る前に次の連載を始めている点です。
一本書きあげて、しばらく休みとって、頭の中整理して、それで前作での心残りを次の作品の中で解消していく、というやり方でないんですよね。
『惡の華』の次の連載作品『ぼくは麻里のなか』って、『惡の華』の中二編の夏祭りのシーンのころに始まってるんですよね。
ちなみに、『惡の華』のテーマの一つって、他人の立場に立って物事見ないとダメなんだってことだと思うのですが、
最後の回は、春日君と仲村さんの土手での出会いのシーンまでを仲村さんの視点で描きなおしたものでした。
ちなみにその同時期に『ぼくは麻里のなか』では、
「見てるのは私の皮だけだ。美しいふりして、笑ったふりして、繋がったふりして、見てるふりして。みんな自分だけを見て。そんなの地獄じゃないか」
同じ漫画家の描く別の作品は、あたかもパラレルワールドのようなものなのですが、同時に連載されると、このようにパラレルワールドに結節点ができてしまうもののようです。
前回、『惡の華』の木下さんの髪形が『ぼくは麻里のなか』の柿口さんに使いまわされるとともに、その内面も引き継がれている、というか、
木下さんの内面の語られなかった物語が『ぼくは麻里のなか』でちゃんと延々と語られているということを書いたつもりなのですが、
『ぼくは麻里のなか』での柿口さんの登場って、わたしが思っていたよりも早い時期で、
2012年5月号
『惡の華』だと、
この頃です。
夏祭りのころには、木下さんのキャラが『ぼくは麻里のなか』で準主役になっていますんで、木下さんを描くペンにもブレが生ずるというか、大した役割を与えられていないキャラの割にはいい表情しているというか、なんか気になります。
主人公の家にドラりこんできたときの木下さん。この後鬼の形相で怒鳴り散らすのですが、その直前の荒い息を鎮める表情は主要キャラのそれ。
夏祭り
の木下さん。
単一の記号的な役割を担うキャラではなく、多様な面を見せる主要キャラの扱いになっています。
さっと『惡の華』を読み飛ばすと、なかなか木下さんの役割には気が付かないもんですが。
ま、でも、この時、2012年5月号の柿口さんの登場はわずか一コマで、彼女について何の説明もなされません。
柿口さんの本格的な登場はこの数か月後、『惡の華』が高二篇になってからです。
基本は、鬼婆キャラですから、登場してしばらくは鬼のような剣幕で怒り散らします。
主人公が祖父の葬式で桐生に戻る。そこで木下さんと再会して仲村さんの居所を教えてもらうのですが、
木下さんって序盤では、単なるスクールカースト肯定派の嫌な役にしか見えないじゃないですか?押見修造の他の作品にそういうスクールカースト主義者ってでてきますんで、そのうちの一人と読者も考えてしまいがちですし、
この場面にしても別に木下さんでなくても、仲村さんの居所教えてくれるのならだれでもいいんじゃないかと感ずるのですが、
ここで木下さんが出てくるのにはそれなりの意味がありますし、並行して描かれていた『ぼくは麻里のなか』との結節点のようなシーンに思えなくもありません。
スクールカーストを示すための駒のようなキャラのはずが、実のところ佐伯さんに対しかなりレズ気のある愛情を持っており、彼女のためと思って主人公の悪事をばらしたことが結果佐伯さんを追い詰めることになったのを本気で悔やんでいて、過去に戻れるなら『惡の華』とか主人公の春日とちゃんと向き合って理解してみたく思っている。
でも、『惡の華』の枠組みの中ではそんな話の余地はありませんから、『ぼくは麻里のなか』に木下さんは柿口さんになって転生するのですけれど、
なぜ木下さんの別れのあいさつのコマに色気が漂っているのかというと、次回作の『ぼくは麻里のなか』って少々いびつだけど、彼女のラブストーリーだからなのでしょう。
ちなみにこの木下さんの別れの挨拶の数か月前に『ぼくは麻里のなか』二巻のあとがきに書かれてたこと。