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では、「空気読め」という言い草が国民的なものになっている状況下で、
心理描写の細かい『惡の華』ってどのくらい理解されてるもんなんでしょうか?
それとも、こういう心理の機微と「空気読め」「空気読めないやつは発達障害」みたいなノリって全く無縁なんでしょうか?
ま、わたしは無縁だと思ってるんですけどね。
『惡の華』を一回読んだだけだとたぶんこの二ページ目と三ページ目の見開きって理解できずに読み飛ばしてると思いますが、
なんか、このコマ西洋絵画的な趣があります。
それはどういうことかと言いますと、
マンガのコマを
①主要人物の言動
②主要人物の見ているもの
③場所時間を示すト書き
④その他
の四種類に分けますと、
上にあげたコマって、主要登場人物の春日&佐伯が椅子に座っているという①のコマなんですが、
仲村さんって見てるんですね、春日君が机の中でこっそり何かくれ読もうとしているのかを。
そして、二人の斜め後ろに肘をついてただ教師に自分の名前が呼びあげられるのを待ってるぼんくらが配置されています。
春日君が、斜め後ろのボンクラよりもりりしい顔をしてるのは、主役だからってのもありますけど、くだらない教師の話を無視して本を読むような人だからだし、
仲村さんがそのことに注目するのは、教師に隠れて本を読むことが向こう側の世界への小さな抜け穴のように感じるからなのでしょう。
教室の風景の本の一コマに過ぎないのですが、このコマの過去にはどんなことがあったのか、そしてその後どんなことが起きるのかをある程度予測させる、
つまり、静止画一枚がストーリーを醸し出してる点で、西洋絵画っぽいなあと私は思います。
さっきのコマに先行するこれら二つのコマは、とてもシンプルに
上の本のコマは②の主要キャラの見ているもの。下の目のコマは①の主要キャラの見ていることを示すコマ。
こういうコマになると、再読、再再読しないとなかなか分かりません。
これ①主要キャラの言動を示すコマであるとともに、②の仲村さんがみている光景を示すコマでもあります。
それと気づかず、春日君は後ろに座っている仲村さんに自分が大切にしている本についてのデータを小出しに伝えていきます。
そして、結構厄介なのは、『惡の華』って
(①主要キャラが何か言ってるコマ + ②別の主要キャラがそれを聞いているらしい)という、台詞が聞こえる位置に誰かいることに着目しないといけない点です。
こんな風に描いてくれると、春日君が隣の山田君に行ってる話は後ろの仲村さんに聞こえてると分かるのですけど、
こう描かれると、この台詞が後ろの席の仲村さんに聞こえてるってのは、再読、再再読しないとなかなか分かりません。
このコマにしても、周囲の学生が仲村さんの教師への暴言に対してひそひそ言っているのが仲村さんには聞こえているという意味です。
今、手元に比較するための他のマンガがほとんどないので、
押見修造のような
主要キャラの言った台詞は、別の主要キャラが聞くことができるか否か
という聴覚情報にこだわるのって一般的かどうかは分からないのですが、
押見修造は、場面と時刻を表すためのト書き機能のコマでも、やたらと音声を書き込みます。
ト書き機能のコマに、台詞を書き込んでコマの節約をしてテンポを速くするというのとは別で、
天気と時刻を示す以外にその場の物音を指定するためのコマとして利用しているようです。
それゆえにト書き機能のコマの使い方が独特で変なんですね。
このように、仲村さんの言動に、仲村さんの見ていたもの、そして聞こえていたものを上乗せして考慮すると、
どんなふうに仲村さんが春日君を好きになっていったのかの理解がかなり異なってきます。
教師の言うこと無視して小難しい本読んでる人、ってだけで既に仲村さんの春日君への好感度って高かったっぽいんですね。
そして、そんな人が佐伯さんの体操着でうっとりしてるのを目撃した途端、何かタガが外れてしまった、
それが真相のようです。
クソムシ教師もひるむような仲村さんの目力。
その四コマ後になぜかハニかむ仲村さん。
11巻の最終回で、仲村さん視点でこの第一話が描きなおされるのですけれども、
あれって、本当に仲村さん視点なのか、それとも小説家を志した大学生の春日君が想像した仲村さんの内面なのか、
どっちなのか?と問われるなら、
わたしは春日君の想像に過ぎないという説に賛成です。