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『血の轍』が結構怖い展開になってました。
もともと押見修造の初長編『デビルエクスタシー』って、女はみんな悪魔、って作品ですから、
佐伯さんの転生したキャラが母親として主人公の男の子を生き殺しにするってのはそんなに驚くこともないのかもしれません。
んで、
マンガのキャラについて、輪廻してるとか転生してるとかうわごとのようなことばかり書いていますけれど、
岡田和人の場合と違って、押見修造は、作品ごとに出版社も変わるし、同時並行で連載こなしたりもします。
結構びっくりしたのは、『ぼくは麻里のなか』の主役と『ハピネス』のキャラって全く同じ顔で、前髪の流れる方向が左右違うだけです。
押見作品のキャラが次の作品では同変形し前作のどのようなカルマを背負っているのか、ということについては、岡田和人の作品ほどわかりやすくないのですが、
そんでも、マンガを読みながら(わたしの場合は何度も繰り返し読むのが通常ですが)、
気になるキャラに対して、「あんたの前世って何?あなたはどこから来たの?」と問いながらよんだりしてるようなもんです。
『ハピネス』の主人公ノラって、過去の押見作品ではどんなキャラを前身としてるのだろうと考えるのですが、
かなりネガティブなキャラの外見を引き継いでいます。
脇キャラが次の作品で主役としてうまれかわるのは岡田和人作品ではあるのですが、押見作品では今までなかったかもしれません。
そういう点から見ても、『ハピネス』は彼の作品の中では今までの作品とはちょっと違うという気がします。今まで光を当ててこなかった部分を描く作品であるのでしょうか。
吸血少女ノラのねぐらには、人形やぬいぐるみが山と積まれています。
そして、この人形とぬいぐるみの数だけノラは人を殺したらしい事が台詞で説明されています。
ていうか、なんで、この台詞で、人形の数がノラの殺した人間の数と読む人を納得させてしまうんでしょう?
「数えきれない人間を殺した。男も女も子供も老人も。血を飲んでは殺して…」
数えきれない数の人形。
人形は死んだ人間と同じく動かない。
これら人形の中には女も男も子供も、それにたぶん老人のもある。
だから、
人形 ≒ ノラの殺した人間
と結論というか推論するのですが、
どうでしょう?
で、別に台詞で説明されてるわけじゃないんですけど、ノラが血を吸って殺したってのも、なんかの比喩に過ぎなくて、
実のところ、女性の持つ母性愛が男をだめにしている、場合によっては死に至らしめている、そういうことを表しているのではないかと私は考えます。
『デビルエクスタシー』ってマンガは、押見修造の初長編作ですが、
語るもお下劣な作品で、
女悪魔(サキュバス)が巨大風俗店を経営していて、そこにやってくる男たちの精気を吸いつくして殺しているんですが、
そこの女ボスが、かつて主人公をおっぱいはさみで窒息死させかけた親戚のお姉さん。
悪魔のボスとして君臨する今も、かつての少年時代の主人公の似姿を球体間接人形にして、それを相手にオナニーするのが日課、という…
これだけのことで、女性の持つ母性愛が男をだめにしている、場合によっては死に至らしめている、そしてそういう犠牲者は山のようにいるというメッセージを感じ取ることは正しくないかもしれませんが、
ただ、同時連載してる『血の轍』ってそういうテーマのようですし、
勇樹の母親とノラって同じ顔している、というかノラは時として勇樹の母親と同じ顔になる。
じゃあ、ノラはおばさんとして描かれているのかというと、そうではなく、
時として可憐な女の子のようでもあり、
女の魔性を詰め込んだ象徴的なキャラのようです。
『惡の華』ですと、男を取り込んで束縛するような愛情を佐伯さんに、開放するような愛情を仲村さんに割り当ててた、そう私には感じられたのですが、
『ハピネス』では、ノラの対になる五所さんにしても、母性的な愛情の持ち主として描いていますし、
勇樹に食い殺された美少女キャラにしても、母性的な死を選んだように見えました。
いろいろ読み込んでみますと、『血の轍』だけでなく『ハピネス』の方も『惡の華』の続編的要素が濃厚なようであります。