対話とは、自分が何か言った時に相手が言い返してくれることで、

相手が生きていないものの場合対話は成り立たないはずです。

 

だから映画やマンガとの間に対話が成り立つと考えるのは本来おかしいはずなのですが、

 

 

二年間とか三年間かけて制作された映画やマンガを二時間とか三時間で見た場合、その何パーセントを理解できるのか?というと、

 

マンガは映画以上に理解が難しいようです。

映画の場合は最終チェックする人としてプロデューサーや編集が大きな力をふるいますが、

マンガの場合、客観的な視点を提供するはずの編集者は作者と共に創作の泥沼の中に入り込んでしまいますし、

それに、

映画と違って、完成してから公開されるのではなく、断片的に発表されていきますので、なかなか一筋縄な理解が通じません。

そんなこんなから「~は~という意味だ」という決めつけが、読者の側としては映画ほど容易ではありません。

 

だから、2時間とか3時間で2年や3年かけて連載された作品を読むと、

10%くらいしか理解できないのが普通なのではないですか?

尤も、ほとんどの人は一回しか読まないのですから、その10パーセントの理解の内で良し悪しの勝負がつくので、作品を提供する側は10パーセントの分かりやすい部分に心血を注いでいるとも言えます。

ただ、それでも、10%しかわからないとは不完全な理解ですから、読者がそういう不完全な理解に基づいてレビューなんか書いたりすると、たいていは自分の生活実感に作品を接木したような頓珍漢なことを言い散らす羽目に陥りやすい。

そうならず、それなりのことを言っているような人でも、それは世間でまともだと思われている「常識」と作品を接木しているだけだったりします。

 

才能あふれた人が二年や三年かけて創作した作品をぼんくらが2時間や3時間かけて理解できるはずなんてない、ということを前提としてみますと、

わたしたちは作品と対話することが実は容易にできるのですね。

 

わたしは同じ作品を何度も何度も繰り返し読むのですが、読み返すときにはたいていそれなりのテーマを設定して読みます。

「佐伯さんが耳を隠すのはどんな時だろう」とか

「仲村さんが耳を出すのはどんな時だろう」とか

「コマの区切りが斜めになるのはどんな時だろう」とか

そういう細かいことです。それらは、10%しか理解できない読み方をしているときには無意識的に端折っているような情報であり、こういう情報を救っていくことで、読者は頓珍漢な誤読から脱出することができる、自分の生活実感と作品を都合よく接ぎ木するのではなくもっと正確に他人のことを理解できるような気がします。

 

そしてそういう風に細かくテーマを設定して読見直していくと、作品は大抵の場合ちゃんとそれなりの答えを与えてくれるものです。それまで10%しか理解できていなかったものが15%の理解になり20%の理解になっていく、そのように私は思います。

これは、しょーもない人と話し合ってみるよりも、はるかに効率の良いコミュニケーションのように私には感じられますし、対話と呼ぶに値することのように思われます。

リアルな場面での他人との対話はリピート機能がないので、理解し損ねた部分はそのまま失われてしまいますし、それに私たちは自分に都合のいいように過去を偽るダメな傾向を持っているようです。

 

惡の華』で鬼の形相で主人公に詰め寄る木下さん。

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この髪型のキャラは押見作品では、鬼のように主人公を追い回すきつい役があてられてきました。

 

『デビルエクスタシー』のシレーヌさん。

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分かりやすい鬼婆の役です。

 

で、『惡の華』の中二編では鬼婆のようなクラスメイトだったのですが、高二篇で主人公と再会した時には、ずっと複雑な表情を見せる人になっています。

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惡の華』って中二編と高二篇で全然絵柄が違いますから、木下さんのような脇キャラですと、髪型変わっちゃったら同一キャラと読者には認識できないですから、再開シーンでは今まで通りの髪形ですが、

二度目にファミレスであって仲村さんの居場所を教えるときには、木下さんは帽子かぶっています。

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状況設定上、この人は木下さん以外であり得ないですから読者は疑問に感じないですけれど、絵岳から彼女が中二編の木下さんと同一人物だと認識するのは不可能です。

逆に言うと、木下さんは中二のころとは全然変わってしまった、もしくは、全然別の面を見せるようになったということもできます。

 

そして、彼女と対話する主人公の春日少年は、

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非常に美形キャラになっていますけれど、これって、次作『ぼくは麻里のなか』の主役・麻里さんと同じ前髪、同じ目です。

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そして、その麻里を慕いつつも、彼女の中に入った男性に対しては鬼のように冷たい柿口さんは、

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木下さんの前髪を踏襲しています。

木下さんが柿口さんに生まれ変わるにつけ脇役が準主役に昇格されていると考えてみるとより作品を深く理解できるような気がします。

それにつけて、柿口さんの抱える内面の問題も木下さんの高二篇のそれとつながっているように感じられるのですが、

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人生において脇役のように感じてきた人が、日の当たる場所に出てきたときに感じる戸惑い。

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それをいままで脇キャラを表してきた髪型を利用することであらわしている、いやもしかすると、そんなに器用なものではなく、無意識に押見修造から出てきた表現かもしれません。

 

でも柿口さんの髪の長さ、目の形、眼鏡は『惡の華』の仲村さん由来のもののようです。まだ、このキャラクターの変身は途上なのですが、

次の『ハピネス』では、とうとう主役に昇格します。

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押見作品をチェックすると、ヒロインの髪形は

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これら三パターンのローテーションで、『惡の華』では、これら三パターンの女子による錯綜した恋愛感情が語られます。

ですが、『ぼくは麻里のなか』と『ハピネス』では、ここに新しいヒロインが加わったようです。

 

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惡の華』10巻で主人公に別れの挨拶をする木下さん。主人公に仲村さんの居場所を知らせるためだけのワンポイントリリーフのような登場で、この「さよなら」と共に彼女は作品から去ってしまいます。

でも、「さよなら」という彼女の目が妙に色気があっていわくありげで、

これは、木下さんが作品に別れを告げるというよりも、単に鬼婆キャラとして利用されてきた脇キャラが主要キャラとして自分の物語を語りだす変身前の挨拶のように思われます。