『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』と次の作品『すんドめ』では、いろいろ異なる点があります。それらは改善されたというべきなのかもしれませんが、

 

 

 

 

 

 

岡田作品では、勃起の絵っていくらでもありますが、男からしても共感の対象でないキャラの勃起シーンの絵というのはあまり見ていて爽快なものではありません、

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 さらに言うと、読者の共感の完全な埒外にあるネタキャラの扱いから、世の中の冷淡さを私は感じてしまいます。

ネタキャラを用意して、それに対する共感を排し、ひたすら笑いのネタにする、

それっていじめの仕組みとほとんど同じです。この手の笑いのとり方にはなにがしかの不愉快さが漂いますし、

こういう笑いの仕掛けをテレビが行うと、バカが現実の世界で模倣します。

 

『すんドめ』以降の岡田作品からは、共感の埒外にあるキャラの勃起、更にはネタキャラの存在自体がなくなってしまいます。

 

勃起するのは、読者の依り代的なキャラのみ、ネタキャラのように見えても読者の共感を呼び込むような心温かい仕組みがどこかにある。

 

 

その結果、『すんドめ』以降の岡田作品には、登場人物が極端に少なくなってしまいました。

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の女の登場人物は、

主人公の恋愛対象が二人、

それに綾波レイからの派生キャラが三人

脇役一人

ネタキャラ三人

女性キャラが九人もいましたが、

 

『すんドめ』には、主人公とその友人の二人しか女性キャラが出てきません。

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どんな人でも直視するにはイタ痛しい部分があるのが当たり前。逆に優れた部分も誰だって持っています。

ネタキャラというのは、そのうちのネガティブな反面しか示していないということであり、そういうネタキャラに物語を頼るということは、ヒーロー&ヒロインの陽の当たる部分しか描かないことにつながるようにも思われます。

逆に、人の人格の多面性を描くということは、人の欠点と長所を両方描くことであり、ヒーロー&ヒロインの痛さを描くことが毎度毎度のことになってしまうと、ネタキャラとの描き分けが出来なくなってしまいます。

結果として、登場人物の内面を掘り下げようとしたら、物語の登場人物の数は減らざるを得ないわけです。

 

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の場合、孤独なおじさんが主人公で、彼の人間関係の薄さ故、多くの登場キャラが必要なのでしょうが、

 

『すんドめ』の場合は、変な文化サークルのメンバーが常に一体となり行動するので、登場人物の総数が少なくとも、うまい具合に話が回ります。

しかし、その代わりといっては何ですが、人気が出たからと言って連載の引き延ば死には不向きな構造なのでしょうか。

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前作『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』で多くのキャラクターに割り振られていた属性が『すんドめ』では登場人物が減った分だけ主人公の胡桃の中に凝縮されています。

 

  • 天真爛漫な可愛い要素

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  • 物語の結末を知っているかのようにふるまうメタ認識キャラ

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  • ある種の説教臭さ

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  • 前作の悪役は『すんドめ』では小悪魔的要素に昇華された。

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  • 死を感じさせる要素

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 これら以外に、前作はネタキャラだった二人組が、『すんドめ』の女の子二人の友情のひな型になっているようです。

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『すんドめ』のヒロイン・早華胡桃の特徴は、彼女の子供っぽい軽快さを表現するため、もしくは主人公・相羽英男のギャグに付き合うために、時として非常にゆるいタッチで描かれることが多いということ。

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彼女のシリアスなタッチとゆるいタッチの落差は、岡田作品群の他のヒロインと比べた場合の顕著な特徴で、

『いびつ』の円、『いっツー』の千秋の場合は、このようなゆるい表現はなされません。