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『いびつ』は、あらすじ的に語るなら、
幼いころ母親が蒸発した故に、女性に対する感情をこじらせた主人公・柿口啓吾は、生身の女体に反応できず、唯一の趣味がリアルな女体の人形作り。
そこに理想的な容姿の女子高生・森高円が現れ、彼の人形のモデルをひきうけるとともに、二人の奇妙な同棲生活が始まる・・・
あらすじを語るというのは、音楽でいうなら主旋律やメロディ、歌声の部分のみに着目するようなもので、
映画もそうですけど、マンガもメロディ・ライン以外にリズムや通奏低音のようなもんが絡まって作品を構成しています。
そして、あらすじだけを論理的にとらえようとすると、作品の中から大切なものを取りこぼしてしまうことになりかねないのですが、
『いびつ』に関していうと、
自分をモデルにしたはずの人形と自分との区別がつかなくなりつつある女の子、
人形と生身の女の子の区別がつかなくなりつつある男、
そして、作者自身でさえ、人形と女の子の線引きはあいまいにしている、もしくは区別がつかなくなっていたのかもしれません。
このような物語を、読者のみがこちら側のリアリティに即した論理で語ろうとしても無理があります。
読者としても、女の子と人形の間の区別を見失いかけることで、より『いびつ』の物語に近づくことができる、より理解できる、そんな気がします。
『いびつ』の中で私が一番好きなコマの一つ。この台詞の論理のねじくれ方がまさに歪。
本来、恋愛はおろか触れることさえ忌まわしい生身の女の子が朝になっても帰らず、嫉妬。
そして、その仕返しに彼女がモデルである人形との性交?を彼女にみせつけてやろうじゃ・・・っ
って、やっぱねじくれた論理です。
人形に仕組んだオナホールに射精したら童貞捨てたことになるのか?というのも微妙な話ですし、それ見た女の子が傷つくのかというのもわけわからん話ですし、
それでも、この論理をねじくれていると理解しながらもある程度うけいれることが物語の核心に近づく肝のようです。
最終的に 女の子と人形の区別はなくなり一体になるのですが、それよりもずっと早い場面から、すくなくとも三巻あたりからは、女の子と人形の区別はあやふやになっています。
女の子にとっても、男にとっても、そして作者にとっても。
かなり頻繁に、女の子は自分の口から人形が語るはずの言葉を語り、男は人形に語るはずの言葉を女の子に語るようになります。
『いびつ』をこちら側のリアリティで語ろうとすると、
どうしてこんな最低な要素の組み合わせの男と、最高の容姿を持った女の子が同棲しなきゃならんのだ?というところがあまりにも不自然なのですが、
男の方は、
人形に対しては、
優しさや気遣い、それに男気を正直に素直に表現できますが、
生身のモデルの女の子に対しては、
憎まれ口ばかりです。
でも、彼の人形に対する心を自分に対するものとして女の子が受け止めることで、
歪な恋愛関係が育っていくのですよね。
この愛情のやり取りに着目していけば、とても自然に恋愛関係が成り立って行ってるのが分かります。
『いびつ』という題名は、SMとかスカトロとかについて歪と言っているよりかは、互いにまっすぐに向かい合うことのできない二人のゆがんだ方向に投げかけられる愛情について表していると私は考えます。
人間の内面は、目が何を見ているのか、目がどう動いているのか、
ということからかなり推測することができます。
マンガですと、コマの組み合わせで何を見ているのかを表現することはできますが、
目の一連の微妙な動きを表現することができませんので、どうしてもデフォルメすることでその情報の不足を補おうとするようです。
逆に、写実的に人の目を描いても、そこに動きが伴わないのでしたら、リアルに何かを語りかけてくるようには見えないものです。
岡田和人作品では、リアルな肉感を持った女性、つまりエログラビアからトレースしてきたような女性を表現する際には、ほとんどの場合目より下しか描かれません。特に唇のリアルさが生きた女体の象徴のように扱われています。
そして、リアルに描かれているからよりエロいのかというと、そうではなく、マンガでデフォルメされたものには抽象的な良さがあるのですね。
もしかすると、私が徐々に枯れつつあり、射精を伴わない抽象的なエロに惹かれるようになってきたってのはあるかもしれませんが。
人形は女の子そっくりに作られ、見間違うばかりになります。
そして、顔は石膏でかたどりしたデスマスク。
このマンガ、生きている女の子とそれを基に作られた人形がそっくりであることを表現しながらも、命あるものとないもののがはっきりと異なることを絶妙に書き分けています。
このコマでは、デスマスクが本物そっくりにリアルに作られていることを示すために唇はしっかりと描かれていますが、
デスマスクに人の心が宿ったかのように見せたい場合には、唇のリアルな凹凸が焼失します。
度重なる災難に、とうとう現実が分からなくなってしまった主人公・柿口啓吾。人形に向かって、これからは二人きりで生きていこうと告げる。
「大丈夫。なんも心配すんな」
その言葉にたいする従順さを示すかのような、線一本で描かれたデスマスクの素朴な口。
このコマから、柿口啓吾にとっては生身の女の子・森高円と彼女を模した人形の二つは、人形一つに統一され、人形が命を持ち始めます。
そして、読者としても、このあどけないデスマスクの描写から人形が命を持ち始めたことを無意識的にも感じてしまう。
映画や漫画で、誰目線とか誰の視点とか言いますけれども、
POVとかのカメラの置き方だけではなく、こういう形の視点の表し方もあるのですね。
何はともかく、二人きりで生きていこうと告げる主人公に対する人形の姿が、あどけなく素直で美しい。