昔、わたしは、杉並区阿佐ヶ谷に住んでいました。蚕糸の森公園というのが地下鉄の駅のそばにあって、その公園に隣接する小学校が室内プールを授業のない時間は一般人に開放していました。

 

そこにちょくちょく行って泳いでいました。懐かしいです。

 

そしてそこの公園のトイレも使ったことがあるのですが、

岡田和人のマンガに出てくるトイレと似ていると思っていました。

 

思っていましたが、しょせん公衆トイレですから似たようなデザインはたくさんあるだろうし、それにかなり昔の話ですから私の記憶もあやふやです。

 

それに、この公衆トイレが岡田作品に初めて出てきたのは、たぶん「ほっぷすてっぷじゃんぷッ!」で、その作品は山形を舞台にしてましたから、

この公衆トイレは山形にあるのだろう、山形は戦災にあってないので明治期の建物たくさんあるし、それに合わせたデザインのトイレだろうか、

なんて思っていました。

 

で、気になって調べてみたのです、

わたしの記憶にある阿佐ヶ谷のトイレは岡田和人のマンガとどれくらい似ているのか、ということですが、

 

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杉並区立蚕糸の森公園 : Anthology -まちの記憶-

 

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『いびつ』より

 

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 『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』より

 

 

ちちんぷいッ! 1 (チャンピオンREDコミックス)

ちちんぷいッ! 1 (チャンピオンREDコミックス)

 

 この作品、長らく連載休止中なんですが、

その登場人物の名前、姓はことごとく中央線の駅の名前です。

そんなですから、主人公は高円寺力。

 

ちなみに蚕糸の森公園の最寄りの地下鉄の駅は、東高円寺

 

ですから、もしかして、と思って調べてみたんですよね。

 

 

 

こちらは、ほとんどの岡田作品に登場するソープランドの廃墟。

廃墟好きにとっては有名なところです。

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【廃墟】クイーンシャトー|廃墟巡行 -tours to ruins-

 

 

壊してバラバラにして、直してまた組み立てる。

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岡田和人作品の面白いところ、たぶん一番面白いところは、彼の作品群に於けるプロット、キャラクター、台詞、舞台設定がまるでレゴブロックであるかのように分解・パーツ化され、それが次の作品群で再構成されていることで、

この結果、後続する作品群は複雑なモザイク模様のような魅力をたたえることになります。

 

そして、新しい作品の中で過去作品のパーツに言及されることにより、過去作品に対する再解釈が行われているようにも思われます。

 

 

例えば、

岡田作品では、主要女子キャラは目頭目尻が繋がっていないのがほとんど。

 

『いびつ』のメグ。

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頭目尻が閉鎖している女子キャラは稀ですから、無意識的に読者はそこに何らかの意味を感じ取ってしまいます。

 

『いびつ』の人形は、円の顔を石膏で写し取ったデスマスクですが、目がない事と目尻目頭が閉鎖してる事がモデルである円との差異として示されています。

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『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の不気味少女。

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『いびつ』の前々作内のキャラですが、死のにおい、変な文系サークル、SM等『すんどメ』『いびつ』につながる要素の多い脇役でした。

 

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 そして、彼女の人形に対する偏愛を示すためでしょうか、彼女の顔自体が人形のように表現されている、

つまり、特に目がうつろな黒一色で、目頭目尻が閉じた形態で描かれています。

彼女は、『いびつ』のヒロイン・円の原型キャラというよりも、彼女をモデルとした人形の方のひな型なのかもしれません。

 

『すんドめ』の浪漫倶楽部の同期のタツヤ。人形が恋人という設定。

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人形がほとんど出てこない『すんドめ』の物語の中では、見落とされがちですが、

人形の目頭目じりが閉鎖して描かれている以外にも、

タツヤの刈り上げの髪形、『いっツー』の千秋と大体同じです。

 

 

『いっツー』の千秋。 

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前作にあたる『いびつ』の円のキャラの多くの部分を引き継ぎながらも、彼女の眼は

頭目じりは閉鎖系。

『いっツー』に人形は出てきませんから、千秋のキャラクターそのものが人形である、もしくはこれまでの作品群の人形に係わる属性を背負っていることを示唆しているのかもしれません。

 

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 千秋の家は、『いびつ』の柿口さんの家と同じ。

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『いびつ』の最後のあたりで、柿口さんの家が売家となっていました。その家を千秋の祖父母が買い取った、という現実的な設定ではないところが岡田和人らしいところです。

 

柿口さんの家は東京練馬区あたりか埼玉らしいのですが、

千秋の家はもっとずっと田舎のへき地です。

建物自体は同じなのですが、それらの近所の後継設定はまるで異なりますし、ついでに言うと庭木が異なっています。

『いびつ』の柿口家

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玉仕立てに刈り込まれた植木。

 

『いっツー』の千秋の家。

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緑の濃い地区であり、庭木も剪定されていない。

 

岡田作品にはいくつかの場所が作品の枠を超えて登場します。

 

廃墟の病院だったり、橋の下だったり、公園のトイレだったりするのですが、

それらの場所を特定できたとして、では物語の設定上の舞台を特定できるのかというと、そういう設定には岡田作品はなっていません。

 

柿口さんと千秋が同じ家に住んでいるから、過去において売却された家を買い取ったとかそういう現実的な設定ではなく、

おそらくパラレルワールドの接点のような形でそれらの場所が使われている、らしいです。

別の世界の話なのですが、微妙な形でつながった二つの世界、

どういう作者による別個の作品って、そういうものだといえばその通りなのでしょうけれども。

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『いっツー』で相模斗里が千秋の家に泊まる場面。

隣の部屋のすみに積み上げられた荷物をチェックすると、大きな紙を巻いたものが一つ。『いびつ』で円の体から人形の型どりをしたときのものだろうか?箱二つは彼女の引っ越しの際のものだろうか?

 

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柿口家の庭に積み上げられているガラクタの山。それらほとんどが植木鉢で、死んだ祖父の趣味がガーデニングであるとして、彼が病気で動けなくなってからの数年間は全く植木鉢の手入れはされていなかったはず。にもかかわらず君子蘭はいまだ葉を残している。

 

こちらは『いびつ』の前々作『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』で主人公が下宿することになった莢香の伯父叔母の家の前。

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こちらにも植物プランター、そして君子蘭。

 

この二作品も直接つながった設定ではないのです、このゴミの山とかした植木鉢が示すのは、『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』のかなえられなかった夢と希望がガラクタと化した世界が『いびつ』の世界なのだろうかと勘繰ってしまう。

 

 

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『いびつ』では、こんな風に言って他者の侵入を防ごうとする柿口さんでしたが、

結局、柿口さんだけの大切な世界に円と人形が住み着くことになります。

『いっツー』では千秋が、その大切な世界に当然のように住んでいるのですが、…

 

 

まあ、千秋は柿口さんだけの大切な世界に住む資格がある人らしいということのようです。

あくまで一つの仮説、わたしの物語の解釈に過ぎないのですが、

千秋は柿口さんが作った人形なのではないか、もしくは柿口さんと円を結び付けた左手を所有するところの人形なのではないか、と捉えるならいろいろ腑に落ちる点が多いです。

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『いっツー』って『いびつ』の世界を人形の立場から覗いてみた、そんな設定のような気がします。

 

 

いびつ』の物語解釈で重要な分岐点となるのは、この人形って円と同一なのか?それとも別の人格なのかという点だと思われます。

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物語の冒頭で二人を結び付ける運命の痴漢の手って、人形の手らしいのですから、

二人が出会う前から、人形って意思を持った存在として『いびつ』の世界にいるらしいのですよね。

円の魂が柿口さんによってパーツの一つ一つ人形に移し替えられていき、最後には円が死んで人形が魂を持ったと解釈することもできるでしょうが、

円と人形は別の存在で、人形はずっと以前より意思を持って存在していると解釈することも可能なようです、いやむしろその方が理にかなっているように思われます。

 

そして、『いびつ』の中では存在しているのかいないのかあいまいな人形は、そのパラレルわーるである「いっツー』の世界の中では千秋として存在し、そちら側の世界では柿口さんと円が架空の存在、おそらく千秋の妄想らしい。

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主人公をブタ二号として散々オモチャ扱いする千秋ですが、一号は架空の存在であり相模少年にとっては嫉妬は全く無駄な事でした。

たぶん、このブタ一号は柿口さんのことだと思います。

 

そして『いびつ』の人形に人格を認めると、

円は柿口さんが好き → 柿口さんは人形が好き → 人形は・・・が好き

と、『いっツー』の人間関係のひな型を見るようです。

 

岡田和人の作品では後続作品が前作の解釈として存在するとみなすなら、こんな風に『いびつ』と『いっツー』を語ることもできるのではないかと記してみました。

 

 

 

 

嫌な見方をすれば、岡田作品は、

舞台設定の使いまわし、少ない資料の使いまわし、物語の使いまわし、台詞の使回し、

あふれ出るような才能とは無縁の作家、

そういう見方が可能なのかもしれませんが、

 

わたしからすると、これらの使いまわしによって、ほんのちょっとした台詞の切れ端、ほんのわずかな描写が、ありえないほどの重みと複雑さを帯びることで岡田作品を魅力溢れるものにしているのですが、

 

そんなこともあって、基本的に、岡田作品は発表順に読み進めていくのが正しいやり方だと思われます。

それの非常に極端な例として、岡田作品に特徴的なスクリーントーンの意味づけ。

特に最近の作品では、このような傾向が顕著です。

 

パターン① 歓び 

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ぽつぽつした光の泡がところどころ大きく膨張してる

 

パターン② 恍惚

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膨張した光の泡がキャラクターの周囲を白く塗りつぶす

 

パターン③ 空白

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大きすぎる歓び、恍惚は、無と同じ。もしくは死と同じ。

 

 

パターン④ ポジティブ認識の始まり

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光の泡が生まれたところ

 

パターン⑤ 不安 不満 恐れ

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育ち損ねた光の泡の末路

 

パターン⑥ それまでの認識に入ったヒビ

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光の泡の死

 

まだいくつもありますが、とりあえず説明しやすい物だけ選びました。

 

これらのパターンが岡田和人のオリジナルなのか他の作家の考案したものなのかは私は知りません。

が、彼のユニークなのは、このスクリーントーンにちゃんと意味づけをしたうえで使っている点です。

 そして、これらスクリーントーンの意味づけは、白が光であることに着目すると直感的にも理解可能なのですが、岡田和人は親切にも『すんドめ』のなかでこれらの意味づけについて説明してくれています。

 

スクリントーンは、煩雑な背景を塗りつぶす省略の手法として使われている事も多いのですが、それは現実的な背景、つまり空や雨雲などと共存せざるを得ないものです。

 

『すんドめ』のラスト

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小さな光の泡は、波の花=プランクトンの死骸。膨張した白い光の領域は精液。

 

精液とプランクトンの死骸が直感的につながらない人もいるかとは思いますけれども、

精子って自発的な運動機能とその意志を持った微生物じゃないですか?そして一回の射精で放出される精子の数は数億。それらほとんどが本来の目的の受精とは無縁のまま死ぬのですが、

 

より巨視的に見るなら、すべての人間の命もすべての生物の命も、ついでに言うなら無機的な物理システムの在り方さえ、死ぬためだけに存在するプランクトンと似通っているのかもしれません。

 

ほとんど『愛のコリーダ』のシーンと同じです。

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精子は生き物なのだろうか?動くから生き物なのだろうけれども、自分の体の一部、自分の体の一部から放出されたものなのに、自分には本懐を遂げることなく枯死する精子の気持ちが分かりません。自分とは違う生命体としか感じられない。

いや、もしかすると、精子って生き物というにはずっと無機的なもので、人間ってこんな形で無機的な物理システムとつながっているのかもしれません。

 

『すんドめ』でひたすら繰り返される射精のシーンのうちの一つ。

自転車の二人乗りから、道を踏み外し、空に投げ出される主人公二人。

その際に空中で射精。

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つまり、『すんドめ』以降の岡田作品には、『すんドめ』の世界観が下敷きになっている、埋め込まれているのですが、それはどちらかというと無意識的に知覚される類のものだったりします。

 

『すんドめ』の中で一番美しいコマの一つ

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末期がん患者の胡桃と異なり、健康な身体の持ち主京子。

胡桃の死、胡桃の隔離された病室の番号、そして浪漫倶楽部の裏事情、すべて知ったうえで、何も語らず、無邪気に雪と戯れる。

このコマでは、これから結婚し子供を産んでいくだろう京子のこれからの人生を、光の泡(この場合は雪片)を舌で受け止める事で表現しているらしい。そしてスクリーントーンと雪の表現の間に何ら齟齬がみられない。

 

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こちらは、風呂場で花火をしようとしたところ、すべての花火に火がついてしまうシーン。胡桃をバスタブに押し込んで英男は身を張って火花よけになるのですが、

 

花火のひかりの粒子という現実的な道具立てが、まるでスクリーントーンのように機能しています。

 

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胡桃は、京子と違い余命いくばくもなく身体的に生命の再生産に係わることができない故に、この光の泡の明滅に対する感受性が研ぎ澄まされています。

これも『すんドめ』の非常に美しいコマの一つ。

 

他作品でも、光の泡を現実的道具立てと絡めるコマはあります。

尤も、スクリーントーンの解説を主目的の一つとして作品が成り立っている『すんドめ』ほど説得力はありませんが、

どちらかというとオマージュというか、本歌取りとして受け止めるべきものであり、そういうコマに出くわした時には『すんドめ』の鮮烈な印象を脳内再生すべきであって、岡田和人作品群は単体としてとらえても面白いものではありません。

 

『いびつ』では、人形の型の削りくずの発泡スチロールの粒

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『いっツー』では蛍のひかり

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岡田作品で一番受けがいいのは『すんドめ』かもしれません。それは『すんドめ』は『いびつ』や『いっツー』と比べると、前の作品に依存する部分が少なく単体で成り立っていると言えるからでしょうか。

『いびつ』は『すんドめ』から多くの部分を本歌取りしてますので、『すんドめ』を踏まえていないと分かりにくかったり、インパクトが弱かったりするかもしれません。

 

『いっツー』に関していうと、冒頭の掃除ロッカーのシーンからして『いびつ』のバッドエンドの余韻消しのようなものであり、岡田和人他作品と絡めて読まないとあまり面白さが分かりません。

 

そんな中で、

『いびつ』のなかで後続作品に引き継がれた要素。

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 ポジティブな光の生まれる場所、恍惚感の源泉としての黒いソックス。

 

それに対し、黒いパンストには光の粒子が描かれていない。

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二人の関係を破滅させる臨時教師の要望で円は黒パンストを履くことになるのですが、黒パンストの光沢が光の粒ではなくスッとした白い線でしかないことが、今後の物語が一筋縄でいかないであろうことを予感させる。

 

最新作の『ぱんスと。』

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 保健室の先生が今後メインキャラとなるのかどうかも定かでない『ぱんスと。』ですが、ストッキングは歓びの源ではないようです。その代わり少しばかり肉付きのいいおなか周りを包むスカートの光沢が光の粒であらわされています。

『いびつ』ってマンガ、三分の一くらいは家の中の場面です。

そして、あんまり広くもない家が舞台なんですけど、

どうやら実在する家の3Dデータが使用されているらしく、非常にリアルであり、

また、家の個性つまり住んでいる人がどんな生活をしていたのかを垣間見ることが可能です。

 

主人公の柿口さんは、両親が失踪した後祖父の家に引き取られたという設定です。

昭和30年代くらいのスタイルでしょうか?

最近のつまらない建売住宅の間取りと異なり、増改築を繰り返した昭和の家のいびつな間取りは、それだけで物語の可能性をはらんでいます。

 

 

柿口家の一階を自分で見取り図風にしてみました。

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まだ二階の方はこれから書きます。

で、二階の間取りの方は題名の『いびつ』のそのままに歪な間取りなのですが、

一階の方は、まだ普通の間取りです。

で、まだ普通なのですが、

この家、おそらく風呂場を増築したために家の間取りがゆがんでしまった様です。

普通の日本家屋は、大黒柱を中心に和室が四つ田の字型に並ぶものですが、(おそらく風呂場を増築したために)風呂場の前の和室の間取りがものすごく変ですし、実のところマンガを仔細に何度もチェックしてもどうなっているのかよく分かりません。

 

また、コタツのある部屋についても本当のところ、四畳半なのか三畳なのか場面場面で異なるようですし、テレビの置かれているくぼんだ個所も変。それにテレビの隣の襖は二枚でなく、一枚で、それもスライドできず壁の代わりになっているのが歪です。

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もしかすると二階部分も増築されたもので、本来はとてもシンプルな家だったのかもしれません。

 

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なんで、見取り図なんか書いてみようと思ったのかというと、

『いびつ』が好きすぎて困るというのもありますけど、

基本的にこの柿口家は、畳敷きの部屋で構成されているので、間取りを把握しやすいというのがあります。

そして、おそらくですが、マンガが建築の間取りを決める3Dソフトを使っているのでしょうが、それにより、畳のヘリの線を見ただけで、家のどこにいるのかさえ分かるようになってしまうというのは、なかなか楽しいものです。

このマンガに使用される家のデータは、ところどころ粗があるようなのですけれど、本来リアルなものですから、

この家の構造を頭に入れておくと、柿口さんと円が自分の頭の中でよりリアルに動き出すようになります。

 

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畳から類推するに柿口さんの身長一メートル程度。

 

 

 

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タツの置いてある部屋が三畳?で狭すぎるので、コタツで寝るときは頭が隣の部屋にはみ出す。

これって風水的には大凶です。

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こんな感じになりましたが、一番の発見は、

柿口さんの枕の位置と円の枕の位置は、直線距離で四メートル程度。

夜な夜な円の部屋を訪れる柿口さん。

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十歩程度の距離に過ぎません。

 

それに天井裏から円の部屋を覗こうとして天井踏み抜いたりしてましたから、

 

初期のころを読んだ感じでは、二人の物理的距離はもっとかけ離れているように読者は感じてしまうのだろうけれど、

設定上、上のコマで柿口さんが移動した距離は、ほんの四メートル程度です。

 

そして、二人の関係が充実していくに従い、互いの部屋を気やすく行き来するようになるのですが、本来これだけ狭いところに二人で住んでいるのだから当たり前と言えば当たり前。

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終盤、ビール飲んだ勢いで、やけオナニーするために円の部屋に駆け込んでパンツを物色するシーン。

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この前のコマでビール飲んでるんですが、柿口さんの部屋からだと、この勢いで走ってくるような距離ではないですから、

おそらく一階でビール飲んでて、それで思い立って階段駆け上がってきたんだろうな、って気がします。

 

 

 

『いびつ』を毎日のように、というか、毎日繰り返して読んでいると、

今までマンガの何を読んでいたのだろうかなぁ?と不思議に思えてくる。

 

まあ、少女漫画ほとんど読んでこなかったからなんだろうけれども、

岡田和人で使われるスクリーントーン、過剰な柄を使って登場人物の心情を表現してしまおうというやり方、少女漫画によくある手法だったりする。一方、男向けのマンガではそれよりも奥行きの深い書き込みが好まれるのが普通。

3D彼女(1) (デザートコミックス)
 

 

 男と女では右脳と左脳の機能分化に差異があるらしくて、細部の描きこみにこだわる女性はほとんどなし。でも、コンピュータに取り込んだデータを使いまわす技術の普及により、少女漫画でもなんでも細部がきちんと表現されているものが増えたっぽい。

 

んで、この

 

 『3D彼女』は『すんドめ』とやたらと話が似てる。

もしかしたら意識してるのかもしれないけど、もしかすると岡田和人の一連のマンガって少女漫画の在り方の流用に過ぎないのかもしれんと思った。

また、スクリーントーンの手法も大体同じ発想、

だけれど、もちろん当然のごとく岡田和人の方が面白い。

 

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この手のゆるキャラ化って、そういえば少女漫画によくある手法だったよなあと気付いた。

そうそう、たいていの女ってどれだけ外見気取ってみても内面にはおばちゃん的なものを幼いころから図々しく宿してるわけで、それが何かのきっかけで表に出るってことの比喩みたいなものなのだろうけど、

この、柿口さんのゆるさかげんってそういう図々しさとはちょっと違って、もうちょっとピュアにかわいらしい。

 

『3D彼女』12巻一気読みした。台詞の全てを読んだわけでもなく、自分の注意と興味、集中力に従い好き勝手に読み飛ばしながらの完読だったのだけれど、

そういういい加減な読み方にはいい加減な読み方なりの自由な楽しさがあって、久しぶりにそんな無責任な読み方をしてみました。

 

きのう、アメリカ育ちのフランス人と『惡の華』を話題にした。

彼がフランス人とだからということで詩人のボードレールの話した、ということではなく、

 

ただ彼は、日本のアニメのファンで、趣味が聖地巡礼という、まあ、そのたぐいの人で、

その趣味が彼の仕事面での実益も兼ねている。

 

んで、

惡の華』のアニメは、ありきたりな地方都市の光景と普通の中高生の姿を映してるだけなんだけど、BGMがホラー映画調で、そのアンバランスさがすばらしい。

だそうだ

 

 

惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 

確かにアニメのBGMは『シャイニング』調の恐怖サウンドでした。

これをきっかけに、『惡の華』を読んでみました。

 

岡田和人と似てました。とても似てました。

 

ダークなヒロインの仲村さんって、綾波キャラでした。

岡田和人と押見修三、いろいろ共通点多いです。

 

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たぶん、互いに意識してるんじゃないでしょうか。