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嫌な見方をすれば、岡田作品は、
舞台設定の使いまわし、少ない資料の使いまわし、物語の使いまわし、台詞の使回し、
あふれ出るような才能とは無縁の作家、
そういう見方が可能なのかもしれませんが、
わたしからすると、これらの使いまわしによって、ほんのちょっとした台詞の切れ端、ほんのわずかな描写が、ありえないほどの重みと複雑さを帯びることで岡田作品を魅力溢れるものにしているのですが、
そんなこともあって、基本的に、岡田作品は発表順に読み進めていくのが正しいやり方だと思われます。
それの非常に極端な例として、岡田作品に特徴的なスクリーントーンの意味づけ。
特に最近の作品では、このような傾向が顕著です。
パターン① 歓び
ぽつぽつした光の泡がところどころ大きく膨張してる
パターン② 恍惚
膨張した光の泡がキャラクターの周囲を白く塗りつぶす
パターン③ 空白
大きすぎる歓び、恍惚は、無と同じ。もしくは死と同じ。
パターン④ ポジティブ認識の始まり
光の泡が生まれたところ
パターン⑤ 不安 不満 恐れ
育ち損ねた光の泡の末路
パターン⑥ それまでの認識に入ったヒビ
光の泡の死
まだいくつもありますが、とりあえず説明しやすい物だけ選びました。
これらのパターンが岡田和人のオリジナルなのか他の作家の考案したものなのかは私は知りません。
が、彼のユニークなのは、このスクリーントーンにちゃんと意味づけをしたうえで使っている点です。
そして、これらスクリーントーンの意味づけは、白が光であることに着目すると直感的にも理解可能なのですが、岡田和人は親切にも『すんドめ』のなかでこれらの意味づけについて説明してくれています。
スクリントーンは、煩雑な背景を塗りつぶす省略の手法として使われている事も多いのですが、それは現実的な背景、つまり空や雨雲などと共存せざるを得ないものです。
『すんドめ』のラスト
小さな光の泡は、波の花=プランクトンの死骸。膨張した白い光の領域は精液。
精液とプランクトンの死骸が直感的につながらない人もいるかとは思いますけれども、
精子って自発的な運動機能とその意志を持った微生物じゃないですか?そして一回の射精で放出される精子の数は数億。それらほとんどが本来の目的の受精とは無縁のまま死ぬのですが、
より巨視的に見るなら、すべての人間の命もすべての生物の命も、ついでに言うなら無機的な物理システムの在り方さえ、死ぬためだけに存在するプランクトンと似通っているのかもしれません。
ほとんど『愛のコリーダ』のシーンと同じです。
精子は生き物なのだろうか?動くから生き物なのだろうけれども、自分の体の一部、自分の体の一部から放出されたものなのに、自分には本懐を遂げることなく枯死する精子の気持ちが分かりません。自分とは違う生命体としか感じられない。
いや、もしかすると、精子って生き物というにはずっと無機的なもので、人間ってこんな形で無機的な物理システムとつながっているのかもしれません。
『すんドめ』でひたすら繰り返される射精のシーンのうちの一つ。
自転車の二人乗りから、道を踏み外し、空に投げ出される主人公二人。
その際に空中で射精。
つまり、『すんドめ』以降の岡田作品には、『すんドめ』の世界観が下敷きになっている、埋め込まれているのですが、それはどちらかというと無意識的に知覚される類のものだったりします。
『すんドめ』の中で一番美しいコマの一つ
末期がん患者の胡桃と異なり、健康な身体の持ち主京子。
胡桃の死、胡桃の隔離された病室の番号、そして浪漫倶楽部の裏事情、すべて知ったうえで、何も語らず、無邪気に雪と戯れる。
このコマでは、これから結婚し子供を産んでいくだろう京子のこれからの人生を、光の泡(この場合は雪片)を舌で受け止める事で表現しているらしい。そしてスクリーントーンと雪の表現の間に何ら齟齬がみられない。
こちらは、風呂場で花火をしようとしたところ、すべての花火に火がついてしまうシーン。胡桃をバスタブに押し込んで英男は身を張って火花よけになるのですが、
花火のひかりの粒子という現実的な道具立てが、まるでスクリーントーンのように機能しています。
胡桃は、京子と違い余命いくばくもなく身体的に生命の再生産に係わることができない故に、この光の泡の明滅に対する感受性が研ぎ澄まされています。
これも『すんドめ』の非常に美しいコマの一つ。
他作品でも、光の泡を現実的道具立てと絡めるコマはあります。
尤も、スクリーントーンの解説を主目的の一つとして作品が成り立っている『すんドめ』ほど説得力はありませんが、
どちらかというとオマージュというか、本歌取りとして受け止めるべきものであり、そういうコマに出くわした時には『すんドめ』の鮮烈な印象を脳内再生すべきであって、岡田和人作品群は単体としてとらえても面白いものではありません。
『いびつ』では、人形の型の削りくずの発泡スチロールの粒
『いっツー』では蛍のひかり
岡田作品で一番受けがいいのは『すんドめ』かもしれません。それは『すんドめ』は『いびつ』や『いっツー』と比べると、前の作品に依存する部分が少なく単体で成り立っていると言えるからでしょうか。
『いびつ』は『すんドめ』から多くの部分を本歌取りしてますので、『すんドめ』を踏まえていないと分かりにくかったり、インパクトが弱かったりするかもしれません。
『いっツー』に関していうと、冒頭の掃除ロッカーのシーンからして『いびつ』のバッドエンドの余韻消しのようなものであり、岡田和人他作品と絡めて読まないとあまり面白さが分かりません。
そんな中で、
『いびつ』のなかで後続作品に引き継がれた要素。
ポジティブな光の生まれる場所、恍惚感の源泉としての黒いソックス。
それに対し、黒いパンストには光の粒子が描かれていない。
二人の関係を破滅させる臨時教師の要望で円は黒パンストを履くことになるのですが、黒パンストの光沢が光の粒ではなくスッとした白い線でしかないことが、今後の物語が一筋縄でいかないであろうことを予感させる。
最新作の『ぱんスと。』
保健室の先生が今後メインキャラとなるのかどうかも定かでない『ぱんスと。』ですが、ストッキングは歓びの源ではないようです。その代わり少しばかり肉付きのいいおなか周りを包むスカートの光沢が光の粒であらわされています。