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映画を見もせず、PC上で読んでるマンガをプロジェクターで100インチに拡大して読んでる。

更には一コマずつ分解して、スライドショーにして見てる。

更には、こまの順番並べ替えて見たりしてる。

 

岡田和人の『いびつ』について語れと言われれば、五時間ぶっ続けで語るのになあ。

誰も、聞きたい人いないのがつらいところ。

『いびつ』は、あらすじ的に語るなら、

 

幼いころ母親が蒸発した故に、女性に対する感情をこじらせた主人公・柿口啓吾は、生身の女体に反応できず、唯一の趣味がリアルな女体の人形作り。

そこに理想的な容姿の女子高生・森高円が現れ、彼の人形のモデルをひきうけるとともに、二人の奇妙な同棲生活が始まる・・・

 

 

あらすじを語るというのは、音楽でいうなら主旋律やメロディ、歌声の部分のみに着目するようなもので、

映画もそうですけど、マンガもメロディ・ライン以外にリズムや通奏低音のようなもんが絡まって作品を構成しています。

そして、あらすじだけを論理的にとらえようとすると、作品の中から大切なものを取りこぼしてしまうことになりかねないのですが、

 

『いびつ』に関していうと、

自分をモデルにしたはずの人形と自分との区別がつかなくなりつつある女の子、

人形と生身の女の子の区別がつかなくなりつつある男、

そして、作者自身でさえ、人形と女の子の線引きはあいまいにしている、もしくは区別がつかなくなっていたのかもしれません。

 

このような物語を、読者のみがこちら側のリアリティに即した論理で語ろうとしても無理があります。

読者としても、女の子と人形の間の区別を見失いかけることで、より『いびつ』の物語に近づくことができる、より理解できる、そんな気がします。

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『いびつ』の中で私が一番好きなコマの一つ。この台詞の論理のねじくれ方がまさに歪。

本来、恋愛はおろか触れることさえ忌まわしい生身の女の子が朝になっても帰らず、嫉妬。

そして、その仕返しに彼女がモデルである人形との性交?を彼女にみせつけてやろうじゃ・・・っ

って、やっぱねじくれた論理です。

人形に仕組んだオナホールに射精したら童貞捨てたことになるのか?というのも微妙な話ですし、それ見た女の子が傷つくのかというのもわけわからん話ですし、

 

それでも、この論理をねじくれていると理解しながらもある程度うけいれることが物語の核心に近づく肝のようです。

 

 

最終的に 女の子と人形の区別はなくなり一体になるのですが、それよりもずっと早い場面から、すくなくとも三巻あたりからは、女の子と人形の区別はあやふやになっています。

女の子にとっても、男にとっても、そして作者にとっても。

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かなり頻繁に、女の子は自分の口から人形が語るはずの言葉を語り、男は人形に語るはずの言葉を女の子に語るようになります。

 

 

『いびつ』をこちら側のリアリティで語ろうとすると、

どうしてこんな最低な要素の組み合わせの男と、最高の容姿を持った女の子が同棲しなきゃならんのだ?というところがあまりにも不自然なのですが、

男の方は、

人形に対しては、

優しさや気遣い、それに男気を正直に素直に表現できますが、

生身のモデルの女の子に対しては、

憎まれ口ばかりです。

でも、彼の人形に対する心を自分に対するものとして女の子が受け止めることで、

歪な恋愛関係が育っていくのですよね。

この愛情のやり取りに着目していけば、とても自然に恋愛関係が成り立って行ってるのが分かります。

 

『いびつ』という題名は、SMとかスカトロとかについて歪と言っているよりかは、互いにまっすぐに向かい合うことのできない二人のゆがんだ方向に投げかけられる愛情について表していると私は考えます。

 

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人間の内面は、目が何を見ているのか、目がどう動いているのか、

ということからかなり推測することができます。

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マンガですと、コマの組み合わせで何を見ているのかを表現することはできますが、

目の一連の微妙な動きを表現することができませんので、どうしてもデフォルメすることでその情報の不足を補おうとするようです。

逆に、写実的に人の目を描いても、そこに動きが伴わないのでしたら、リアルに何かを語りかけてくるようには見えないものです。

 

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岡田和人作品では、リアルな肉感を持った女性、つまりエログラビアからトレースしてきたような女性を表現する際には、ほとんどの場合目より下しか描かれません。特に唇のリアルさが生きた女体の象徴のように扱われています。

そして、リアルに描かれているからよりエロいのかというと、そうではなく、マンガでデフォルメされたものには抽象的な良さがあるのですね。

もしかすると、私が徐々に枯れつつあり、射精を伴わない抽象的なエロに惹かれるようになってきたってのはあるかもしれませんが。

 

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人形は女の子そっくりに作られ、見間違うばかりになります。

そして、顔は石膏でかたどりしたデスマスク

このマンガ、生きている女の子とそれを基に作られた人形がそっくりであることを表現しながらも、命あるものとないもののがはっきりと異なることを絶妙に書き分けています。

このコマでは、デスマスクが本物そっくりにリアルに作られていることを示すために唇はしっかりと描かれていますが、

デスマスクに人の心が宿ったかのように見せたい場合には、唇のリアルな凹凸が焼失します。

 

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度重なる災難に、とうとう現実が分からなくなってしまった主人公・柿口啓吾。人形に向かって、これからは二人きりで生きていこうと告げる。

「大丈夫。なんも心配すんな」

その言葉にたいする従順さを示すかのような、線一本で描かれたデスマスクの素朴な口。

このコマから、柿口啓吾にとっては生身の女の子・森高円と彼女を模した人形の二つは、人形一つに統一され、人形が命を持ち始めます。

そして、読者としても、このあどけないデスマスクの描写から人形が命を持ち始めたことを無意識的にも感じてしまう。

 

映画や漫画で、誰目線とか誰の視点とか言いますけれども、

POVとかのカメラの置き方だけではなく、こういう形の視点の表し方もあるのですね。

 

何はともかく、二人きりで生きていこうと告げる主人公に対する人形の姿が、あどけなく素直で美しい。

       岡田和人作品リスト

黒い太字は、長期連載作。

『教科書にない』の連載開始は1994年後半か?

 

こうしてみてみると、彼のほとんどの作品はヤングチャンピオンに掲載されており

一番最初の長編『教科書にないッ!』のみ8年にわたる長期連載でしたが、それ以外の連載期間は3年程度です。

 

『教科書にないッ!』の連載の中で彼の作風が固まり、それ以降の作品群はあたかも『火の鳥』のごとく、カエル男篇、波の花篇、人形篇、ゾンビ篇・・・と、それぞれの作品の登場人物こそ異なれ、同じテーマを繰り返し繰り返し問い直すものになっています。

 

まあ、逆からいうと、最初の『教科書にないッ!』だけ、ぶれた作品ともいえるわけで、

第1巻の頃のキャラクター、1995年ころ。

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昭和のラブコメ風です。

 

それが96年から97年の『エヴァンゲリオン』ブームを経ると、

 

8巻、97年ごろ。

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貞本義行の影響がみられます。

 

12巻 1999年ごろ。

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オリジナリティ出そうとしたのかしれませんけど、鼻がでかすぎ。

 

15巻 2001年。

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だいぶ顔のバランスが落ち着いてきました。

 

17巻 2002年ごろ。

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その後の絵と大体同じになりました。

また主要キャラクターの絵が安定すると同時に、PCを使ってのマンガ制作の型ができてきたように思われます。岡田和人作品の文法とでもいうべきスクリーントーンの使い方も今の作風にかなり近くなっています。

また、コマの組み方も作風が決まってきました。

 

かように見てみますと、岡田和人作品はエヴァンゲリオンの影響を受けて主要キャラクターの描き方がすっかり変わってしまうのですけれども、エヴァンゲリオンの一番の人気キャラ・綾波レイ風の登場人物はまだいません。

 

それが、次のヤングチャンピオンの連載作品『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』になると、綾波オマージュとでもいうべきキャラの優菜が登場します。

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何を持って綾波キャラか?と言われると厳密な定義は難しいのですが、わたし的に言うなら、その台詞を林原めぐみが吹き替えても違和感なければ、綾波キャラ。

岡田和人作品では、前髪がM字型であるのが共通点と言えるでしょうか。

 

岡田和人は、エヴァンゲリオンファンを公言していて、

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『教科書にないッ!』のアニメ化の際には、アスカとミサトさんの中の人が参加。

 

ただしかし、『教科書にないッ!』の時、すでに綾波キャラを登場させたくて仕方なかったように思われます。

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『教科書にないッ!』の最終回にちょこっとだけ登場する主人公の娘。前髪がM字型で岡田作品内の綾波キャラの初登場でしょうか。

 

次の『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』では、存分に綾波キャラが準主役として活躍しますが、それでは岡田和人作品はエヴァンゲリオンのパクリに過ぎなくなったのかというと、実はその逆で、ほかの女性キャラの役割分担はすっきりし、岡田和人の個性が分かりやすくでるようになったようです。

 

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『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の主役・莢香。

院の部分を綾波キャラが引き受けてくれるおかげで、明るい性格設定でも説得力がそれなりにあるキャラになっている。

で、主人公の恋の対象でエヴァンゲリオンでいうとアスカの立ち位置なのだろうけれども、アスカと全然キャラが似ていない。

 

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湯の浜、ミサトさんの立ち位置なのだろうけれど、ミサトさんとあんまり接点のないキャラ。

 

さらに言うと、『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』では、そのほか脇役女性キャラを綾波キャラの分裂ヴァリエーションが担います。

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ヤクの売人やってる悪玉も綾波デザイン。『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』での登場回数は少ないですが、この次の作品『すんどメ』の主人公・胡桃とほとんど同じ外見で描かれています。

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手塚治虫作品だとスカンクとかヒゲ親父が作品の枠を超えてしょっちゅう登場してくるのですが、それを手塚治虫はスター・システムと称していました。

岡田作品群では、前の作品で脇役チョイ役だった人が次の作品では主役に大抜擢されている、前作では悪役を演じていた役者が次作では感涙を誘うヒロインを演じている、そんな感じでしょうか?

映画的に言うと岡田組という感じでいつもの常連の役者がいる、そんな感じです。

 

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の不思議少女も、前髪M字型の変形綾波キャラ。

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話の本筋とは関係のないエピソードに係わるキャラですが、後の作品『いっツー』の3人の主人公のうちの一人とほぼ同じ外見です。映画俳優的に言うなら、初出演の脇役でインパクト残して、のちの作品で主役をゲットしたといったところ。

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ちなみに『いっツー』の主人公は綾波の派生キャラの系譜にありながらも前髪はM字ではありません。が、その代わりといっては何ですが、主役男キャラの方が前髪M字になっています。

 

また、この綾波派生キャラは、その後の岡田作品群のいくつものモチーフとかかわっており、『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』では本筋とは絡まないキャラでありながら、岡田和人ワールドでは重要な存在のようです。

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変な文系サークルの部室がここで初登場。『すんどメ』『いっツー』に再登場します。

 

『いびつ』の主要モチーフである球体間接人形がここで登場しています。

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ひたすら勃起せずにはいられない男性の有様を哀れで美しいと表現、これも『いびつ』で繰り返されます。

 

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ほのかな死のにおいを伴うキャラ。

 

SM的な場面も共通しています。

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こうしてみますと、『いびつ』の主人公・森高円も綾波レイの派生キャラの系譜上にあることがよくわかります。

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M字前髪以外の外見的類似はなくなってしまいましたが、肉体的苦痛、精神的苦痛に対して無頓着という設定、そして自分が複製可能であることからくる空虚さとやさしさを持っているという点に関しては、本家綾波レイをうまく継承していると言えます。

 

 

 

 

 

 

 

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』と次の作品『すんドめ』では、いろいろ異なる点があります。それらは改善されたというべきなのかもしれませんが、

 

 

 

 

 

 

岡田作品では、勃起の絵っていくらでもありますが、男からしても共感の対象でないキャラの勃起シーンの絵というのはあまり見ていて爽快なものではありません、

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 さらに言うと、読者の共感の完全な埒外にあるネタキャラの扱いから、世の中の冷淡さを私は感じてしまいます。

ネタキャラを用意して、それに対する共感を排し、ひたすら笑いのネタにする、

それっていじめの仕組みとほとんど同じです。この手の笑いのとり方にはなにがしかの不愉快さが漂いますし、

こういう笑いの仕掛けをテレビが行うと、バカが現実の世界で模倣します。

 

『すんドめ』以降の岡田作品からは、共感の埒外にあるキャラの勃起、更にはネタキャラの存在自体がなくなってしまいます。

 

勃起するのは、読者の依り代的なキャラのみ、ネタキャラのように見えても読者の共感を呼び込むような心温かい仕組みがどこかにある。

 

 

その結果、『すんドめ』以降の岡田作品には、登場人物が極端に少なくなってしまいました。

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の女の登場人物は、

主人公の恋愛対象が二人、

それに綾波レイからの派生キャラが三人

脇役一人

ネタキャラ三人

女性キャラが九人もいましたが、

 

『すんドめ』には、主人公とその友人の二人しか女性キャラが出てきません。

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どんな人でも直視するにはイタ痛しい部分があるのが当たり前。逆に優れた部分も誰だって持っています。

ネタキャラというのは、そのうちのネガティブな反面しか示していないということであり、そういうネタキャラに物語を頼るということは、ヒーロー&ヒロインの陽の当たる部分しか描かないことにつながるようにも思われます。

逆に、人の人格の多面性を描くということは、人の欠点と長所を両方描くことであり、ヒーロー&ヒロインの痛さを描くことが毎度毎度のことになってしまうと、ネタキャラとの描き分けが出来なくなってしまいます。

結果として、登場人物の内面を掘り下げようとしたら、物語の登場人物の数は減らざるを得ないわけです。

 

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の場合、孤独なおじさんが主人公で、彼の人間関係の薄さ故、多くの登場キャラが必要なのでしょうが、

 

『すんドめ』の場合は、変な文化サークルのメンバーが常に一体となり行動するので、登場人物の総数が少なくとも、うまい具合に話が回ります。

しかし、その代わりといっては何ですが、人気が出たからと言って連載の引き延ば死には不向きな構造なのでしょうか。

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前作『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』で多くのキャラクターに割り振られていた属性が『すんドめ』では登場人物が減った分だけ主人公の胡桃の中に凝縮されています。

 

  • 天真爛漫な可愛い要素

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  • 物語の結末を知っているかのようにふるまうメタ認識キャラ

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  • ある種の説教臭さ

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  • 前作の悪役は『すんドめ』では小悪魔的要素に昇華された。

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  • 死を感じさせる要素

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 これら以外に、前作はネタキャラだった二人組が、『すんドめ』の女の子二人の友情のひな型になっているようです。

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『すんドめ』のヒロイン・早華胡桃の特徴は、彼女の子供っぽい軽快さを表現するため、もしくは主人公・相羽英男のギャグに付き合うために、時として非常にゆるいタッチで描かれることが多いということ。

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彼女のシリアスなタッチとゆるいタッチの落差は、岡田作品群の他のヒロインと比べた場合の顕著な特徴で、

『いびつ』の円、『いっツー』の千秋の場合は、このようなゆるい表現はなされません。

 

 

 

 

 

 

『いびつ』は、生身の女の子と人形の区別が曖昧であることにより初めて成り立つ繊細なバランス感覚の物語なのですが、

 

人形は人形なのですから、話したり笑ったりしてはアウトです。にもかかわらず、熱心な読者は、人形の無表情の中からも感情を嗅ぎとってしまうのですが、

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それでもいくら何でも、柿口啓吾がゆるキャラ化したときに、人形も同調してゆるキャラ化するなんてことはさすがにご法度でしょう。

 

そして、人形のモデルである森高円も、その人形の在り方を踏まえて、柿口啓吾に同調してゆるキャラ化したりはしません。

相羽英男と一緒にゆるキャラ化するのが常態の早華胡桃との大きな違いは、この点です。

 

『すんドめ』 二人仲良くゆるキャラ化。その同調力が胡桃のノリの良さとやさしさの表現。

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『いびつ』 女の子と男の落差が笑いの源泉。

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柿口啓吾に合わせて森高円はゆるキャラ化したりはしないのが基本。

二人が違う世界に生きているということ、または、生身の人間と人形の差異を示唆しているかのよう。

二人が互いにシリアスな画風で一つのコマに収まることはたぶんないんじゃないでしょうか。シリアスな表情で対話する際には、「切り返し」を用いて描かれてます。

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ツンデレという言葉も最近目にしなくなりましたが、こういう二人の距離感の表現がツンだとすると、

デレの部分もあるわけで、

柿口啓吾のゆるキャラぶりにほんの少しだけ同調して、ほんの少しだけゆるくなってる森高円の絵柄が、見ていてかわいい。

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この手のコマは、物語後半になるとぽつぽつと増えてきます。

 

また、円が啓吾を殴るお約束のコマは、物語の前提としての二人の距離感が一瞬の間崩れる瞬間であり、円が啓吾を殴ることと二人がゆるキャラ化で同調することには親和性が高い。

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わたしは、『いびつ』の末期的なファンとして、キンドル版の『いびつ』を全巻そろえ、それを何度も繰り返し読み、さらには気に入ったコマのキャプチャーをしてスライドショーで楽しむまでになったのですが、最初に重点的に円が啓吾を殴るシーンばかりあつめました。これらシーンの魅力というのはあとになって考えてみると以上に述べたような理由から来ます。

 

 

最初の一話で、円が啓吾を殴ることの航程的な意味はすでに表明されています。

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扉を押し破るように、

円は啓吾を殴って、

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大切な啓吾だけの世界に、円は入っていきます。

 

こういう点をふまえて、次作の『いっツー』を『いびつ』のテーマを別の物語を用いて再考したものとして読んでみると、

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女の子からの暴力がよりマイルドで現実的であり、

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 かすかに心地よいユルめの画の中で、男の子の方も女の子に対してそれなりにやり返している。

このコマの中に、時間を止めたくなるような幸せがこもっていることが分かるようになります。

 

『いっツー』は『すんドめ』や『いびつ』ほど評価も人気も高くないようですが、前作と同じものを期待するから肩透かしを食らうわけで、

このコマが示すような『いびつ』では描かれることのなかったより現実的な幸福感が『いっツー』の最良の部分のようです。

 

『すんドめ』はヒロイン・早華胡桃のキャラクター凝縮感が魅力の源泉だとすると、その次作『いびつ』の魅力は、実のところヒロインではなく、ヒーローの柿口啓吾のキャラクター凝縮感にあるのではないか?と、

『いびつ』を何度も繰り返し読むうちに思うようになりました。

 

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の物語が多くの登場人物により構成されていたのに対し、『すんドめ』は浪漫倶楽部の部員六名+数人のみです。

『いびつ』は、というと、登場人物総数はかなり多くなっていますが、孤独な主人公二人は、そのほかの人たちと薄いつながりしか持っていないので、二人だけの閉じた物語だという印象が強いです。

そのおかげでしょうか、主役の柿口啓吾のキャラクターは普通の物語の数倍分のキャラクター情報が凝縮されているようであり、

これは、他の脇キャラを排除していくことで描き分けの必要がなってはじめて可能になったことなのでしょう。

そして、この多様性は、ある意味リアルな人間像に近いように思われます。

 

『いびつ』はギャグマンガでもあるので、主役の柿口さんはゆるく描かれることが多い。

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シリアスな状況になると、こうなる。

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ヒロインの恋の対象でもあるので、時たま美形風にも描かれる。

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ただ、冷静に考えると、ダメな要素の掃きだめキャラですから、客観的に見たならこんくらいキモいかもしれません。

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『すんドめ』では早華胡桃がゆるキャラ化することが多かったのですが、『いびつ』で森高円がゆるキャラ化することはほぼなく、その代わり柿口さんがしょっちゅうゆるキャラ化する。

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ゆるキャラって、基本的にはかわいいものですから、

柿口さんはかわいいということになります。そして『いびつ』においては森高円のほうはとらえどころのない存在で、キャラとしての魅力を本当に放っているのは、柿口啓吾らしいということに、しばらくしてから気が付きました。

 

 

胡桃のゆるキャラ化したときの魅力を引き継いでいるだけでなく、柿口啓吾にはそれまでの岡田作品群のキャラの要素が高濃度で凝縮されています。

 

柿口さんがギャグ風の時には目は、点か線。

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それに対し、シリアス風な時は、ぱっちりした目。

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これは、『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』のヒーロー主人公の、変身前と変身後。

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主人公は開いてるのか開いてないのかわからないくらい目が細いという設定ですが、

 

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カエル化すると、カエルのようなくりくり眼で、イケメン化します。

 

ちなみに『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の主人公は32歳。

柿口啓吾は22~23歳。柿口さんのどこか落ち着いた達観したところは、作者の分身であるというのもありましょうけど、『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の32歳の心を引き継いでいるようでもありますし、

『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』の高校一年生のシゲの少年ぽさも持っており、

要は、前の作品で二人に分けられていたキャラが一人の枠の中に凝縮されているってことなのでしょう。

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老成した部分もあり、初々しい少年ぽさもありというのが主人公・柿口啓吾のキャラであり、

 

なおかつ

岡田和人の最初の長編『教科書にないッ!』のネタキャラ群を集大成して、かれらの人生の肯定的な部分に光を当てようとした試みのようにも見えるのです。

 

8巻に出てきた東堂君。

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親から金の形でしか愛情をもらったことがないので、自分も金で愛情を示せると思ってる。

外見が、非常に柿口さんっぽい。

『いびつ』でいうと、円の母親が金で問題を解決しようとするところが同じ。そして彼の周りに集まる人たちは、自分の居場所がないと感じているところも『いびつ』の円の問題に通じる。

 

途中から出てくるネタキャラ。

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九州 広島 大阪と転校繰り返し主人公の学校にたどり着く。口から出る言葉と心の中身が全然かみ合わない。低身長、喧嘩弱いけど、「女子供には負けねぇんだ」

 

終わりの方に少しだけ出てくるキャラ。

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受験ストレスで、自己コントロール能力消失。

髪型、輪郭が柿口さんぽい。

 

ちなみに、岡田和人の自画像。

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上にあげたキャラとかなり共通しており、これらネタキャラに親近感を抱いているらしいことが分かる。そして、柿口啓吾がその集大成であるのではなかろうか?

 

柿口さんが、時折見せる特撮戦隊的なポーズ。

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喧嘩の経験のないおたくが相手を暴力的に威嚇しようとすると、特撮戦隊的なポーズしか出てこないという意味だと思う。

 

そして、これの源流はというと、『教科書にないッ!』のオメクリマンだと思う。

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それから、ギャグ時の表情の作り方としては、『すんドめ』の元部長の流れを引いているっぽい。

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そして、わたしが、最初に読んだ時に感じたのは、

柿口啓吾 = ガンダムアムロ

髪型似てるってのもそうですけど、よくよく調べたら、いろいろな点でやっぱり似てると思われます。

それに、台詞にガンダムっぽいのがいくつかありますし。

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それに調べてみると、『すんドめ』の部室にガンプラいくつも飾ってありますので、作者はおそらくガンダムファンだと思われます。

 

 

このように見てきますと、『いびつ』の柿口さんって多様な面をもっており、岡田和人が最高と考えるものと最低と感じるものを片っ端から突っ込んでできた集大成的なキャラらしいです。

 

そして、『ほっぷすてっぷじゃんぷッ!』に対する批判ですが、男の立場からしても共感できないネタキャラの勃起場面というのは見ていてそれなりに不快なものですが、柿口さんくらいによく作りこまれ共感できるキャラだと、勃起の場面に不快感を、少なくとも私に関しては、まったく感じません。

『いびつ』の成功原因ってこの辺にあるのではないでしょうか?

 

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ギャグ調、ネタ調、ゆるキャラ調の時とシリアスな時の画の振り幅の大きい柿口さんですが、実のところは、おそらくこんな顔しているらしいです。

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ファミレスのトイレの便器の中に鍵を落とした時。その鍵の位置から二人の顔を見上げる構図。誰目線なのかというと、人ではない物質からの目線ですから感情を介さない客観的なものと考えられます。

円が人形だという以上に、柿口さんが人形っぽいですね。

そして、二人そろって顔面アップで一コマの中にシリアス風に描かれたコマって『いびつ』のなかに何枚あったんでしょう?この他にあったっけ?

 

 

格口啓吾が森高円が入浴のために脱衣中を覗く。

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いきなり、この三枚のコマ見せられると、柿口さんの描き方の振り幅から、別の二人が彼女を見ているように錯覚しないでしょうか?

 

わたくし、毎回毎回、『いびつ』を再読するときにテーマを決めて行うのですが、

柿口さんがシリアス調の描き方をされるときは、人形を見ているとき。

柿口さんがギャグ調の描き方をされるときは、円との人間関係を読者に示すとき。

と目星をつけてみました。

 

どうやら、それで正解のようです。

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