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Amazonで一巻が無料で読めるので読んだ。
というか、以前、レンタルして五巻全部読んだんですけど、一巻だけ読み直したってことです。
東村アキコが若かった時に絵を習っていた先生の話。
っう主張で、竹刀をもってスパルタ的に教える先生。
そんで、デッサン力をさりげなく見せつけるような絵、描けなかったら、ある意味、この先生への裏切りというか、不義ではないですか?
だから、
綺麗なデッサン力示すコマがぽつぽつ出てきまして、それが先生への感謝と愛情の表現になってるようです。
で、少女マンガですから、その常套手段の
ギャグめかしたコマがあったり、美化されたコマがあったりするのですが、
等身大の主人公の姿を描くときには、この作品特有のシリアス調な顔になるのですが、
このコマは誰の目から見えるコマなのか?と考えると、読者以外には見えないコマなんですから、読者の目線ということにしときましょう。
で、下のコマ、
『かくかくしかじか』の一巻でもっともデッサン綺麗に描かれた主人公。
このコマの構図だと主人公の姿は先生の目から見えているはずの姿。
つまりどういうことかというと、『かくかくしかじか』の作品では、先生には主人公のありのままの本当の姿、誇張もされてなくてギャグにもなっていないありのままの姿が見えているのですね。
そして、その姿は、わたしたち読者に見えているはずの姿、読者に提示されている客観的な目線よりもよりリアルだということ。
わたしたち読者よりも、作中の先生の方が主人公のことを理解しているということを暗に示しています。
高校生の時に先生に描かされた自画像。
そのころの主人公には自分の姿が正しく見えなかった。見る事が出来なかった。だから彼女の自画像はぼんやりしたままで読者に提示される。
でも、先生には、彼女の姿がはっきり見えた。
教えることが、プラトニックラブの本義だとすると、
教えられる側のプラトニックラブの受け止め方って、こういうことなのではなかろうか、あの人は私を理解してくれていると信じることなのではないか、
とわたしは『かくかくしかじか』を読んで思いました。
別に性欲を何かでくるんで見えなくするのがプラトニックラブではなく、
こういう教育と信頼の形をとると、もうそれで人と人の関係としては十分にいっぱいいっぱいなものです。
先生と初めて会った時のコマ。
それぞれのPOVで構成される。
主人公には先生がどんな人かということが見た目以上には見えないのですが、
先生の方には主人公がどんな人なのかということがはっきりと見えています。
絵に限ったことではなく、
相手を見る行為は、まるで鏡を見る目るように自分がどの程度のものであるかを示す事である、
と雄弁に語っています。